アニメ『ストライクウィッチーズ』の魅力を語る 主題の魅力編

 さて『ストライクウィッチーズ』が終了して早1週間、いかがお過ごしだったでしょうか。ネット上では終了直後ということもあり、総括として様々な魅力が語られています。特にid:karimikarimiさんが先導&扇動されている印象を受けますが、こりゃ乗っかるしかないだろう、ということで遅ればせながら自分も意見を少々書かせていただきたいと思います。
 多くの人々が多種多様な方面から語られているように、本作の魅力は一言で言い表すことはできません。その中で、自分なりの観点から見たとき、主題の強度が大きな魅力になっていると感じました。

ストライクウィッチーズ』はただの薄っぺらい美少女&ミリタリアニメではない?

 本作を一言で表すとすれば、おそらく「メカ&美少女」あるいは「ミリタリ&萌え」ではないでしょうか。これはおそらく制作者もそう嘯く(失礼)でしょうが、しかし本当にそれだけの作品だったら、ここまで自分にとって良い作品だと感じてはいないと思います。例えば、同じ島田フミカネがデザインを担当しているアニメ『スカイガールズ』と比較した場合*1、なぜ『ストライクウィッチーズ』の方に魅力を感じるのか、考えてみました。
 その『スカイガールズ』との相対的な差異であれ、単体で見たときの絶対的価値であれ、本作『ストライクウィッチーズ』はアニメーションとしての映像的な魅力が大きいと思います。それは監督である高村和宏の素晴らしさであったり、各作画スタッフの腕であったり、GONOZOの誇る優秀な3Dアニメーションによるものでしょう。この点に関しては、多くの人が語るところと思われます。*2
 それ以外の要素として、優秀な劇伴(BGM)の存在が挙げられます。長岡成貢作曲によるシンフォニックで壮大な音楽は、音楽単体としての魅力も高く、作中における重要なシーンは「音楽で語る」といっても過言ではないくらい、重要な役割を果たしていると感じました。本エントリでは深入りを避けますが、これについては今後書くかも。
 さらに物語の背景にある世界観は、期せずして長くなってしまった準備期間からか、ものすごく練りこまれており、その氷山の一角しか見ることのできない我々視聴者にとっては無限にも等しいものです。これは物語に外周からの構造的な強度を与えています。メディアミックス展開(小説、まんが……)を参照すれば、作品世界は貴方の頭の中で大きく拡大していくことでしょう。
 そのような多くの要素を踏まえつつ、本作の特徴として強いメッセージ性があると考えました。しかし、メッセージ性が強いのに、押し付けがましくない。ここまで確固たる主題を掲げているアニメも珍しいと思いました。この主題は変奏され、反復しつつも、常に作品の中心に存在し続けています。この中心軸としての主題が物語に、そして作品に強度を与えているのではないか、と考えました。

守りたいから私は飛ぶ!!

 本作の主題とは言いますが、具体的に何を指しているのか。ここで小説版『スオムスいらん子中隊がんばる』の巻末に収録されている原作者解説から、島田フミカネの言葉を引用します。

彼女たちには守りたい人や世界があり、だからこそ、自ら望んで最前線に立つ強さを持てるのです。
(中略)
彼女たちの住む世界は決して楽観できるような状態にはありませんが、彼女たち一人一人の前向きな頑張りが少しずつでも世界を良くしていく。

 自分はここで語られているようなことが、本作の主題に相当すると考えています。それは各話サブタイトル(例えば、第2話「私にできること」、第3話「一人じゃないから」、第9話「守りたいもの」)や、監督自ら作詞に参加しているオープニングテーマ『STRIKE WITCHES〜わたしにできること〜』の歌詞などからも伝わってくると思います。

わたしに できること/ひとつづつ 叶えたい/夢に向かって 一歩ずつ歩こう
わたしに できること/あなたにも伝えたい/あきらめないで 翼広げて
さあ とぼうよ あしたのために
(中略)
あなたにできる/わたしにできる/ステキなこと つなげたら
あの空の 明けかたも 少しかわるでしょう/強くなる 一人ではないから

 『ストライクウィッチーズ』は主人公・宮藤芳佳の成長物語であり、宮藤芳佳(および視聴者)が第501統合戦闘航空団、通称「ストライクウィッチーズ」の面々と出会い、仲間となり、ともに過ごし、ともに戦い、そして別れるという物語です。主人公である宮藤芳佳の思考には、まさにこの主題が反映されています。

守りたいから私は飛ぶ!!」

 この主題に呼応するように、作中ではいくつかのルールめいたものが存在します。例えば、単独での戦いでは勝利できません。複数人のチームプレイでないと、ネウロイを倒すことはできないのです。第2話の宮藤&坂本(+海軍の男たち)、第3話での宮藤&リーネ等々……。作中で単独での撃墜に成功しているのは、半ば事故ともいえる第5話のシャーリーくらいのものです。総力戦とも言える最終話では、ペアによるコンビ技が炸裂していました。この「共闘」という点については小説版『スオムスいらん子中隊』シリーズにおいても顕著です。
 複数人での戦いにおいて、各人は各人の特性をいかす必要があります。「わたしにできること」というフレーズは、作中のいたるところで見受けられます。つまり、変な言い方かもしれませんが「適材適所」ということであり、自分の果たすべき役割を探していくのがひとつのテーマになっています。キャラクタ紹介的なエピソードの中においても、その問題は通奏低音のように存在し続けます。何を守りたいのか。「わたしにできること」は何なのか。
 初期の宮藤は「守りたい」が、戦争はしたくなかった。ウィッチーズ隊に所属することになった時にも、渡された拳銃をつき返しました。しかしネウロイによって奪われたものがあります。人、そして祖国。それぞれ守りたいものは様々です。個々人は個々人の信じる「守りたいもの」を守るために、戦うという道を選んだのです。坂本によってブリタニアへ連れられてきた宮藤は、戦いを通じて自分の役割を獲得していきます。それまで抽象的だった守るべき「みんな」の存在は、赤城を救ったことで可視化され、守るために戦うという「わたしにしかできないこと」を見つけていきます。
 宮藤にとって初めての戦闘である第2話と、最終第12話は良く似ています。違うのは、宮藤が成長していること、そして宮藤は「一人ではな」くストライクウィッチーズの仲間がいること。孤軍奮闘する宮藤の背中には、再結集しつつある仲間たちの姿があり、「守りたいもの」があります。

主題による強度に支えられた『ストライクウィッチーズ』の魅力

 このような「守りたいもの」をめぐる主題が、『ストライクウィッチーズ』における強度を生み出していると考えています。もちろん、この主題がしっかりしていることが魅力のすべてではなく、そこには魅力的なキャラクタであったりというものが不可欠です。特に主題をまっすぐ前面に押し出している宮藤芳佳というキャラクタが魅力的(嫌味にならない)なのは必須です。さらに付け加えるならば、各話内における物語構成もさることながら、全12話を通したシリーズ構成の妙が光っていた作品だと思います。重い話あり、軽い話あり、現実的な話あり、幻想的な話あり。ベタな展開、とも言われそうな胸躍る熱い王道展開は、中心からの主題と外周からの世界観によって生み出されている強度によって支えられていると思います。だからこそ「萌え要素」や「ズボン」が散りばめられていながらも、あざとさやいやらしさを感じることのない、純粋に感動し、心に染み渡ってくるような快作になりえたのだと考えています。
 最後に。自分としてはテレビ2期もいいけれど、是非ウィッチーズの活躍を劇場で見たい!ラスト4話のような熱い展開が映画館の巨大なスクリーンで見ることができたら、どんなに幸せなことでしょう!
 うぉっ!今回はパンツのパの字も書いてないぜ!って、今書いたじゃん、ていうツッコミはやめてね。

*1:ちなみに自分は『スカイガールズ』をちゃんとは見ていません。今度、ちゃんと見てみようと思います。おっぱま!

*2:本作の主題(後述)にならって、他の人にお任せします。It's not my business.

アニメ脚本家・高山カツヒコによる実写爆破シーンを振り返る

 現在公開中のWEBラジオ『のら犬兄弟のギョーカイ時事放談第25回の「ジェネオンカウントダウン」(ジェネオン関連の告知コーナー)で、2期『ef - a tale of melodies.』の放送開始を目前にして、1期『ef - a tale of memories.』の総集編DVD『ef - a tale of memories. 〜recollections〜』というのが2008年9月26日に出るのを知りました(ほら偽まる先生、ちゃんと宣伝番組として機能しているよ!)。最近はこのような「まとめDVD」も多いな、などと思いました(『さよなら絶望先生』とか、ね)。分割2期の弊害でしょうか。『ef』は巷間での評判が良いみたいなのですが、自分は3話くらいまでは視聴していたのですが、途中で見忘れてしまい、以降見ていません。そういえば今週末に渋谷のシアターTSUTAYA(旧Q-AXシネマ。名称変更に対する感想は以前のエントリを参照)で12話オールナイト上映があるので、良い機会だと思って、チケットが取れそうなら行ってみようかと思っています。次の日、朝一から予定があるけどね(笑)。
 で何を言おうとしていたかというと、総集編DVD『ef - a tale of memories. 〜recollections〜』の詳細な情報が公式サイトに載っていないのですが、『ギョーカイ時事放談』での説明によると、新作カットを交えた総集編であり、特典映像として2008年6月28日に渋谷C.C.Lemonホール(旧渋谷公会堂)で行われた『RONDO ROBE 2008』(そういえば、今年はサブタイがなかったんですね)にて上映された2期『ef - a tale of melodies.』PVが収録されるそうです。自分はこのイベントに参加していないため、そのPVの内容は知りません。そういえば、この『RONDE ROBE 2008』で『苺ましまろ』の新作OVA苺ましまろ encore』の製作が発表されたのでした。今からそれはもう、楽しみです(笑)。かわいいは正義
 で何で『ef - a tale of memories. 〜recollections〜』の話をしたいかというと、その特典映像のPVの中でシリーズ構成・脚本を務める高山カツヒコによる実写爆破シーンがあるそうなのです。確か『ef』は結構真面目なお話だったと思うのですが、一体何をどのように爆破しているのでしょうか。興味深深です。高山カツヒコといえばアニメ脚本家を本職としながらも、乙種火薬類取扱保安責任者資格を所持していることから「特撮監督」として実写爆破シーンを担当したりもしています。なにやら自主制作映画でSFXなどをやられている(TEPPROJECT参照)ので、ある意味こっちも本職なのかもしれません。というわけで、高山カツヒコ実写爆破ヒストリーを振り返ってみたいと思います。

ぱにぽにだっしゅ!』(2005年)

 
 第24話「死して屍拾う者なし」のCパートで「スクエニ」本社ビルを爆破。一条さんとともにに温泉に入っていた片桐姫子が、一条さんの首の裏についている「押スナキケン」のボタンを発見、思わず押してしまったところ「スクエニ」が爆発するという流れ。いわゆる爆発オチ。おそらく我々が見ることのできる最古の高山カツヒコによる爆破シーンだと思われます。ちなみにこのネタの発案者は原作者の氷川へきるらしいです。

ネギま!?』(2006年)

 
 第9話「「”心”を”刃”で隠して”忍”と読む。”本気”と書いて”マジ”と読むのとはチョット違うでござる」by楓」のラストで麻帆良学園中等部女子寮を爆破。神楽坂明日菜が料理に失敗して爆発、という流れ。『ぱにぽにだっしゅ!』と同じような構図での爆破です。静止画では分かりませんが、2段階に分かれた爆発の後、白煙に覆われます。

さよなら絶望先生』(2007年)

 
 第12話「なんたる迷惑であることか!」終盤で糸色家を爆破。三珠真夜の悪行がエスカレートしていき、最後には「絶望ボタン」(?)を押して糸色家を爆破してしまうという流れ。直前にCG(だよね。もしかしてあれも実写?)の糸色家爆破全景の後、ちゅどーんといった感じで立ち上る大きな火煙です。

ひだまりスケッチ』(2007年)

 
 特別編前編「8月11日 そして元の位置に戻す」の冒頭でひだまり荘を爆破。寝ていたゆのが鳴り出した目覚まし時計を止めると、突如ひだまり荘が爆発。すぐにうめ先生「なーんてね」と続くように、お話的には意味のないカット。『ぱにぽにだっしゅ!』とは異なり、真正面からの爆破カットです。

最後に

 以上のように現在4作品で実写爆破を行っている「特撮監督」高山カツヒコですが、今後も爆破をやっていきたいとの思いをもたれているそうです。やるとすればシャフト作品であるのはほぼ間違いないので、注意していれば次の爆破にめぐり合えるはずです。
 ちなみに高山カツヒコのコメントが何かに載っていないかな、と手持ちの書籍から探してみました。そのひとつである『公式ガイドブックぱにぽに2 試験に出るぱにぽにだっしゅ!』には「ぱにぽにだっしゅ!と私」というタイトルのコラムがが1ページ×2本も載っているのですが、「まずはカレーについて話さなければならない」から始め、『ぱにぽに』には触れることなく、「ソースカレー」「二か月カレー」「シャア専用カレー」などについて合計5000文字近く語っているという、「大学のレポートでカレーのレシピを書く」都市伝説みたいなことをやられています。どうやら、お茶目さんのようですね(笑)。ちなみに自分が感心したのは「ソースカレー」で、これは卓上ソースにカレー粉を混ぜてご飯にかけて食べるというもので、卓上ソースは原材料が野菜や果実であるので、カレー粉を混ぜれば立派なカレーになる、というものです。学生さんなどは、是非お試しください。
 以下は完全な戯言。本日、「『逆転裁判』特別法廷2008オーケストラコンサート秋」@渋谷Bunkamuraオーチャードホールの昼公演に行ってきました。オーケストラもなかなかで、ちょっと感動しました。全体的に弦楽器が聞こえにくかったのが少し残念でした(あれはホールの所為もあると思う)。春にもあったのですが、そちらは情報弱者ゆえ知らずにスルーしてしまい大変悔しい思いをしていたので、今回参加できて大変嬉しかったです。アンコールで「タイホくん〜守ってあげたい」(1のDS版の第5話『蘇る逆転』でタイホくん人形が踊ってるときの音楽)のマーチアレンジっぽいのがあって、意外とそれが良かったです(笑)。他には「捜査官組曲」(イトノコ、茜、罪門恭介のメドレー)が印象的でした。あ、もちろん法廷のテーマなんかは鳥肌ものだし、御剣のテーマも逆転姉妹のテーマも、結局全部最高でした(笑)。ただオーケストレーションのレヴェルに差があるのは事実だと思います。法廷組曲がもうひと工夫されていたら、もっと満足できたかもしれません。あとコンサートの冒頭に重大発表があったのですが、内容はすでに公開されているのでこちらをご覧ください。これが「NEW逆転裁判 NOTゲーム」ってことかあ!正直、ここまでやられるともう何も言えません。……どうしろって言うんだ、カプコン!正直、興味は無茶苦茶あります!

『School Rumble』完結記念、アニメ版監督・高松信司の「フォーマット崩し」

 長い長い連載となった小林尽School Rumble』の最終巻がついに発売されました。最終的に丸6年という長期の連載であり、それまでの『週刊少年マガジン』にはなかった(というか、ありえなかった)作風で、最後まで楽しませていただきました。そもそもページ数からして特殊で、時期によって7〜12ページをさまようフレキシブルな構成のまんがでもありました。あそこまで数多くのキャラクタが、しかもそのキャラクタを立たせながら群像劇を繰り広げるというのは、この作品か氷川へきるぱにぽに』かといったところでしょう。
 内容的にも学園生活のイベントをなぞるだけでなく、バスケをしたり、漫画を描いたり、漁船に乗ったり、サバゲーをしたり、最終的には歩行祭をしたりとバラエティに溢れていました。まあ、そのような当初のラブコメ軸を見失い(?)、キャラクタ的にもエピソード的にも様々な方向にエネルギが散逸していったのは賛否両論だったと思いますが、このような自由で「何でもあり」な作品であることが何よりも楽しかったです。
 メディアミックス展開も、赤松作品を中心にコアファン向けに移行しつつあった講談社の戦略とも合致し、広く行われ成功を収めました(多分)。特にアニメーション化は複数回にわたって行われました。

  1. スクールランブル(2004年、TV、通称・一学期、全26話)
  2. スクールランブルOVA 一学期補習(2005年、OVA、全2話)
  3. スクールランブル 二学期(2006年、TV、全26話)
  4. スクールランブル 三学期(2008年、OAD<単行本付録>、全2話)

 アニメーションの宣伝として行われていて、高野晶役の清水香里がメインパーソナリティを務めていたラジオ番組『スクランお茶会』について色々語りたいこともあるのですが、今回はおいておいて。さて、この4回のアニメ化のうち、「二学期」を除く3本の監督を担当したのが高松信司です。
 高松信司といえば、かつては『こちら葛飾区亀有公園前派出所』、最近では『銀魂』の監督(後に監修)として有名ですが、この監督の持ち味のひとつは既存のテレビアニメの持っているフォーマットを崩してくるところにあると考えています。それはこの『スクールランブル』でも顕著です。

放送形態としての番組フォーマット崩し

 CMを除くと、一般的なテレビアニメーションは上のような構成になっています。ただし、アバンやエンドカードは番組によってあったりなかったりしますし、3話構成(『サザエさん』的なAパート、Bパート、Cパート*1)のものもあります。テレビアニメ『スクールランブル』(一学期)は、基本的に3話構成のアニメーションになっています。
 では3話構成だとして、Cパートはどこに入れれば良いのでしょうか。一般に3話構成の場合、オープニングとエンディングの間にA、B、Cパートが入ることが多いです。そこで、例えばアバンの代わりに長いアバンとしてAパートをやってしまったり、エンディング時間を早めてエンディング後にCパートをやったり等の様々な試行が行われました。
 個人的にとても驚いたのが第25話「ボーー!プワーン!ギュイーン!」です(このサブタイトルについては後述します)。機会があれば見て欲しいのですが、CMを除いて開始20分頃にオープニングが流れるのです。ネタばらしをすると、この話は主人公のひとりが漁船に乗るエピソードが前回のCパート〜今回のAパートにあって、その中でオープニングのかわりに「ソーラン節」的な民謡調の漁の歌とともに力強い筆文字の踊るオープニング的なものが流れたのです。で、代わりに本来のエンディングの位置でオープニングが流れたのです。確かにそう考えると、映像はオープニングのものですが、流れるテロップはエンディングのものでした。ですが、自分はあれを見たとき、とても驚いたのです。

 上は一例に過ぎず、見ていただければパートごとの時間やアバンなど、かなりフレキシブルな構成で作られているのが分かると思います。このような番組構成フォーマットを崩すのは、後に『銀魂』でも大いに発揮されたと聞いています(申し訳ありませんが自分は未見です)。

冒頭に挿入される注意のフォーマット崩し

 1997年のポケモンショック以降流されるようになった悪魔(?)の呪文「テレビを見るときは部屋を明るくして離れて見てね」ですが、高松監督はこれをも柔軟にもてあそびます
 アバンのひとつの活用法として、前回までのあらすじの紹介があります。そこで本作では前回の映像を用いて、キャラクタに「テレビを見るときは〜」を喋らすという、いわゆるMAD的な手法を取ったりしています。
 例えば第5話「燃える初恋!燃えるお茶会!燃えるソフトボール!」冒頭では、前回にあった「相手の思っていることが文字で見える」という1エピソードを用いて、注意メッセージが提示されるというようなことをやっています。

サブタイトルのフォーマット崩し

 サブタイトル云々の前に、まずサブタイトルの提示方法からして、従来のフォーマットを崩しています。従来はオープニング後の本編に入って少ししてからアイキャッチとして提示されることが多いですが、本作ではオープニングのラストカットがサブタイトル提示画面になっています。
 サブタイトルでもいろいろやらかしている本作ですが、ひとつに「文字にできないサブタイトル」があります。ずばり第25話です。まずは見てください。

 これは便宜上「ボーー!プワーン!ギュイーン!」と新聞等のラテ欄で表記されました。こんなのもありなんだなあ、と正直感心しました。
 また史上一番長いサブタイトルというのもあります。第26話(最終話)です。

突然の「さよなら」…迷い込んだラビリンス…あなたはだれ?…教えて。「すれちがい」「片想い」とどけ、ボクの気持ち。とどけ、ワタシの想い。たぶん一度しかない季節、青春の1ページ。これが最後のチャンス、確かめたい…キミの気持ち。伝わる言葉、伝わらない想い。あの日の告白、永遠の一日、だけど…いつまでも続いていく、わたしたちの「いま」。そして明日へ…「スクールランブルフォーエバー」

 187文字で史上最長らしいです。ちなみにラテ欄では「突然以下略」と表記されたそうです。というか、はてなキーワードに「突然の「さよなら」…迷い込んだラビリンス…あなたはだれ?…教えて」として登録されていているのに吃驚。キーワードページでは他の長いサブタイトルなど、情報が分かりやすくまとまっているので必読です。ちなみに最長第2位は同じ高松監督の『銀魂』第75話で「『仕事のグチは家でこぼさず外でこぼせ!って言うからちょっとこぼさせてもらうけどね「侍の国」僕らの国がそう呼ばれていたのは今は昔の話…とか言って始まったこのアニメもはや一年半。あんな事こんな事いろんな事があったよね。で、そろそろ色々振り返ってもいいかなーと思ったのに「チェッなんだよ総集編かよ、手抜きじゃね?」とかアニメだって作るの大変なんだから文句言うのやめなさい!』」の182文字らしいです。高松信司、一人舞台ですね(笑)。
 ちなみに第二期『スクールランブル二学期』(金崎貴臣監督)の最終話では、これに呼応する形で、史上一番短いサブタイトル「.」(ピリオド)というのをやっています。イカスぜ!

まとめ

 以上、『スクールランブル』および高松監督の「フォーマット崩し」の紹介でした。ここにあげたのはほんの一例に過ぎませんので、機会があれば是非見て欲しいと思います。このようなものも高松監督のただのオナニーめいた暴走では決してなく、良い意味で無軌道だった原作とのマッチングが、相乗効果を上げていたのではないかと考えています。『スクールランブル』はテレビ東京開局40周年記念番組ということもあってか、音楽がとても優れています。本編BGMもすごいのですが、何よりエンディングテーマである小倉優子『オンナのコ♡オトコのコ』がすごい。作詞作曲はピチカート・ファイヴでお馴染みの小西康陽なのですが、完璧な小西サウンドの上に乗っかった小倉優子の破壊力は必聴です。
 以下、戯言です。ついに『ストライクウィッチーズ』最終回でした。あんなにも感情を揺さぶられるとは、放送開始前は正直思っていませんでした。大変素晴らしい作品で、幸運な出会いができて良かったと思います。昨年の『ロミオ×ジュリエット』で完全にゴンゾを見捨てた身としては、まさかこのようなことになるとは思いもしなかったです。嬉しい誤算とはまさにこのことでしょう。
 だけど、小説版最終巻や今後のメディアミックスに対する期待とともに、一言。
 結局、ネウロイの正体は何なんだよ!

*1:よくCパートと言うとエンディング後のパートを示すことが多いですが、ここでは3話目を指します。

「負けない」評論とちょっとおセンチな秋の夜長

 久しぶりの更新になってしまい、申し訳ありません。時期的に考えれば分かるように、帰宅するなり『クイズマジックアカデミーDS』に興じていたというのが表向けの原因です。お恥ずかしい限りです。このゲームは面白いですねー。ここまでwifiのありがたさを実感できるソフトも珍しいものです。アーケード版は金食い虫だからって敬遠していたけれど、DS版だって金はかからなくても時間食い虫だなあ。諸事情で名前は明かせないのですが、「魁やまブき高校」って学校名でやってますので、もし見かけたらフッとほくそえんでみてください。
 その間に色々考えるところがあって、自分が何をやって、何を書いているのか見失いそうにもなっていました。まあ、秋なので少々センチメンタルなわけです(笑)。その中で徐々に読み進めつつある『ファウスト』Vol.7ですが、創作以外は殆ど目を通せました。興味深かったのが竜騎士07の5万字インタビュー(太田克史との対談だろ!ってツッコミは野暮です)。とにかく量的にも凄いのですが、実際は3回分のインタビューが載っているわけで、要するにVol.6から2年半も経ってしまったからこのような量になっただけとも言えます。それでも時系列に沿ったそれらのインタビューを見ていると、なかなかに面白い。その中で特に気になった部分をP.672から一部引用します。

どうもね、今の若い人たちには「自分がすごく楽しみにしていたものに裏切られるとカッコ悪い」っていう風潮があるらしいんですよ。現代は空前のネット時代、記録社会で、発売前の感想も発売後の感想も全てが記録に残る時代ですよね。だから後で揚げ足を取られてもカッコ悪くない批評を残しておこうというのが最近の風潮で、今、発売前の作品に胸をときめかせて期待する批評をネットで書いている人なんてのはごくわずかなんじゃないかな。
(中略)
いつからか感想文っていうのは諦め文調でやるのがいいんだ、っていうムードが出てきたと思う。だから「読み物」という見地からすると、すごく批評がつまらないなーと思う時代になった気がしています。

 最新作『うみねこのなく頃に』EP1発売前後のネット上の反応に対する竜騎士07の率直な気持ちのように思われます。こんな短い引用でも色々と突っ込みたいところもあるのですが(例えば「評論」という単語の使用法であったり)、されているようであまりされていないタイプの指摘だと感じました。「後で揚げ足を取られてもカッコ悪くない」というのは、確かにネット上で何らかの発言をする際の最重要項目のひとつかもしれません。それは、例えばこのはてダのようにハンドルネームでありながらも一応個人を主張して書かれているような多くのブログでは当然のことであり、また匿名での掲示板発言でも同様ではないかと思います。それはただの自意識の問題のようでもありますが、そのような発言の先には(実際にいるかいないかは別問題として)確実に読者という第3者が存在するという事実が大きいです。そのような振る舞いは社会的であり、意図の有無に関わらず情報を発信するものとして何らかの責任を果たそうとしている態度だとも感じます。
 自分の内に秘めている思考には、論理的整合性もままならないものも少なくありません。そのような薄らぼんやり曖昧模糊とした思考であっても、それを直接吐き出すことに価値があることもあるはずです。それは例えば飲み会の場でなら放言できるかもしれません。しかし明文化しネット上などで発表するのは恐怖です。このはてダを始めた時に「今まで避けてきた直截的な主張を少しずつでもしていこうかな」なんて書いたのですが、実際にはなかなか難しい。自分が無駄に大人になってしまったのか、別段圧力がかかっているわけでもないのに思っていること、感じていることを直截的に発信するのは躊躇われるのです。
 率直な意見というものは、えてして暴論になりがちです。そういうことを理解しているから、それなりの論理的整合性を保った文章を書こうと人は努力するのです。他者に納得させ、理解させるというのが最終目的であるならば、そこでは「勝てる評論」が必要とされるでしょう。しかし「勝てる評論」をやり遂げる体力や覚悟がないのであれば、必然的に「負けない評論」をせざるを得ないと思われます。ここで「勝てる評論」とは攻守ともに優れたな評論であり、「負けない評論」とは攻撃力は低いものの相手に付け入る(=突っ込まれる)隙を与えないという高い防御力を持っている評論を想定します。あ、ちなみに自分語です。あしからず。
 実際的には、この引用元である竜騎士07の発言もそうなのですが、攻撃力は高いが防御の甘いものが多いと感じます。それは竜騎士07のみならず、最近ここで触れた人物では宇野常寛などもそうだと思います。しかしそういう評論ほど面白いと感じます。
 ブログなんかも同じだと思っていて、「負けない」だけの雑文はフラットで面白くないと思います。それよりは多少粗があっても刺激的な視点を提示しているものの方が、自分にとっては面白いです。新たな視点を獲得してくことができるのが、他者のブログを読む楽しみです。だからこそ、自分も多少粗があってもポンポン出せていけたら良いなあと思っています。が、それがなかなか難しいんだよねー。もっと責任感のハードルを下げて良いと、頭では分かっているつもりなんですけどね。これはおそらく、すべてのブログ書きに共通のジレンマかもしれませんね。
 ちなみに『ひだまりスケッチ』関係ではいくつか言いたいことがあるのですが、うまくまとまらないんです。本エントリもなかなかまとまりませんでしたし、現段階でもあまりまとまっていませんが、こういう内容ですから思い切ってアップしました。ごめんなさい。『ひだスケ』だと、原作版における「5コマ目としてのタイトルの重要性」や、アニメ版の「擬似家族の中に血縁家族を持ち込むという意味」「アニメの中の実写はアニメというパラドックス」なんかが気になる項目です。そのうち書くかも。まあ、秋の夜長のグダグダ思考です。しかも、少々おセンチな(笑)。
 余談ですが小説版『ストライクウィッチーズ スオムスいらん子中隊シリーズ』を読みました。アニメ版とは一味違う面白さがそこにはあります。これでまんが版と合わせて「パンツ応募券」が4枚(2口分)溜まったのですが、どの商品で応募しようか悩みます。それにしても昨年放送の『BLUE DROP』およびそのまんが版といい、最近の自分は百合ものに縁があるのが気になりますな。

羞恥心に関する考察と隠されていた真実『ストライクウィッチーズ』

 羞恥心。などというと、最近ではそれを微塵にも感じさせない某男性アイドル(?)ユニットを想像する方も少なくないかもしれませんが、「誇大妄想の被害妄想」(C)伊集院光な自分にとって、それは常に人生におけるテーマのひとつであります。地べたに座り込む若者、電車内で化粧をするOL、露出過多なファッション……。街を見渡せば変容した羞恥心がごろごろ転がっている、なんて論調が世間では数年前から取りざたされていたりもします。日本人論の祖たるベネディクト『菊と刀』に「日本文化は恥の文化、西洋文化は罪の文化」とあるように、羞恥心は日本文化の根幹をなしている重要な概念と言えるでしょう。
 羞恥心。それは「恥ずかしく感じる気持ち」(大辞泉より)。まんが・アニメ的世界においては、頬を赤く染めるといった記号として散見される羞恥心ですが、それはどのようなときに噴出する感情なのでしょうか。そこには何かしらのルールが存在するはずです。当はてダでも度々言及しております『ストライクウィッチーズ』においては、そのキャンペーンコピィ「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」から明らかなように、この世界の論理とは異なった論理のもとに羞恥心が存在しているように見受けられます。果たして登場キャラクタたちは何を恥ずかしいと感じ、何を恥ずかしくないと感じるのでしょうか。本エントリでは、パンツのようなもの=ズボンだったと判明し物議をかもし出した第7話「スースーするの」をテキストに、登場キャラクタたちの持つ「羞恥心」について考察したいと思います。

「羞恥心」とは何か

 羞恥心とは恥じる心、といってもあまり具体的ではありませんね。顔がカーッと真っ赤になって羞恥心を感じた経験を思い出せば分かるように、そう単純に類型化できるものではありません。その具体的分類は省きますが、大事なことは羞恥心とは自意識の問題であり、他者の目に自分がどのように映るか、ということなのです。
 もっとも簡単な羞恥心が発揮されやすい例として、「裸になること」が挙げられます。ただ、もしこの世界に自分以外誰もいなかったら、裸になったときに羞恥心を感じる必要があるのでしょうか?はたまた、この世界の人々が全員全裸で生活しているとき、自分が裸になったからといって羞恥心を感じるのでしょうか?また、赤の他人の前で裸になるのは?それとも身内の前だったら?
 その羞恥心を感じるレヴェルは様々に異なるかもしれません。ここで主張したいのは、「裸になる」という行為自体に羞恥心を感じるのではなく、その行為を行うときの諸条件によって羞恥心のレヴェルが変化するということです。そこにはある種のルールがあるはずです。

第7話「スースーするの」における羞恥心描写

 パンツのようなものをめぐるドタバタを描いた『ストライクウィッチーズ』第7話「スースーするの」では、各キャラクタの行動からその羞恥心を読み取れる機会に恵まれています。まず第7話を精読(精視聴?)してみましょう。上から時系列で並んでいます。行為と対象が書かれており、頭の「×」は「恥ずかしくない(羞恥心を喚起しない)」、「○」は「恥ずかしい(羞恥心を喚起する)」という意味です。
 以下共通の注意ですが、この世界では下着というものの存在があやふやです。その表記については下表を参照してください。

便宜上の表記 作中表記 説明
下着 ズボン いわゆる「パンツのようなもの」
水着 宮藤、坂本が身体に直接穿いている「水着(スクール水着)のようなもの」
タイツ ズボン*1 ペリーヌ、エイラ、サーニャが「パンツのようなもの」の上に穿いている「タイツのようなもの」
  1. 基本設定:×下着丸出しで生活する
  2. シャーリー:×下着のみで歯磨きするのを他人に見られる
  3. ゲルト:○他人が下半身裸なのを見る
  4. エーリカ:×下半身裸で外出する「まーいっか」
  5. ルッキーニ:×お風呂での裸の付き合い「わーい!お風呂おっ風呂〜」
  6. 宮藤:×お風呂での裸の付き合い「わーい!お風呂〜」
  7. ペリーヌ:○全裸で他人に抱きかかえられる
  8. エーリカ:×下半身裸で階段付近ではしゃぐ
  9. エーリカ:×他人の脱ぎたて下着を穿く
  10. ルッキーニ:×他人の脱ぎたて下着を穿く
  11. ペリーヌ:○下着を着けずにタイツを穿く
  12. ペリーヌ:○他人の脱ぎたて水着を見てる
  13. 宮藤:○下半身裸で人前に立つ
  14. ゲルト:×自分の穿いている下着を他人の面前で脱いで、他人に穿かせてあげる「何を遠慮することがあるか。変な奴だ」
  15. 宮藤:○他人が目の前で下着脱ぐのを見る、他人が目の前で脱いだ下着を穿かされる
  16. 坂本:×人前で水着一丁になる
  17. 宮藤:○他人に自分の水着を手に取られる
  18. ルッキーニ:×他人の水着を手に取り、あまつさえ口にくわえて走り回る
  19. 宮藤:○裸の下半身を他人に見られる
  20. エイラ:○他人のタイツを穿く「ごめんっ!」
  21. ルッキーニ:×他人のタイツを首に巻く
  22. 宮藤:○下半身裸の状態で出撃する
  23. ペリーヌ:○下半身にタイツを直接穿いた状態で出撃する
  24. ミーナ:×他人の下着数枚を手に取る
  25. ルッキーニ:○下半身裸で公衆の人前に立たされる

意外と理解可能な彼女たちの羞恥心

 これらの中には現実世界の論理で理解可能な類の羞恥心も多く含まれます。まずはそれらを取り除いてあげましょう。

特定環境下での羞恥心:共同浴場

 まずは5,6番のお風呂での裸の付き合いがあります。共同浴場には共同浴場なりのルール(特に視線のルール)があり、普通に入浴するだけであれば必要以上の羞恥心が喚起されることはありません。そこで羞恥心が生じるとすれば、必要以上の自意識過剰などが原因としてあるはずです(例えば、もしこの場にリーネがいたとすれば、自分の巨乳にコンプレックスを持っている彼女のことですから、おそらく羞恥心を感じることでしょう)。

特定対象に対する肥大した羞恥心:憬れのあの人と……

 またペリーヌの行動である7,11,12,23番も比較的理解しやすいです。7,12番での「他人」とは憧れの的であり擬似(?)恋愛対象である坂本なので、単純な「好きな人に何かされると恥ずかしい」という現象です。似ているのは20番のエイラの行動で、これもエイラがサーニャに抱いている感情を考慮すれば理解できます。同じ行為でも誰に見られるか、誰にされるか、というのは羞恥心を考える場合の大きな要素になってきます。

成長段階における羞恥心:無邪気な子供

 ルッキーニの行動も意外と理解しやすいです。ルッキーニは自分の下着がなくなった状態で、他人の脱ぎたて下着を穿き、また逃走途中にいくつかの下着、水着、タイツなどを手に取り、口にくわえ、首に巻いてはしゃぎます。この一連の行動の根幹には、悪戯っ子という子供独特の無邪気な感情があると考えられます。悪戯心が羞恥心を上回ったと考えれば、十分理解可能です。

少しずれた常識下での羞恥心

 また坂本、シャーリー、ミーナの行為も一般的です。まず坂本ですが、腐っても水着≠下着ですので、同性の面前で水着一丁になるのはまあ理解できます(が少しぐらい躊躇してもよさそうですが、それが竹を割ったような坂本少佐のキャラクタなのでしょう)。シャーリーの行動は男子には理解しにくいですが、下着がファッションの一部である女子にはそこまで抵抗がないのではないでしょうか。そういえば、6話でも皆そのくらいフランクな格好で談笑していました。最後にミーナはあくまでも職務として没収品としての下着、すなわち純粋に物質として他者の下着を持っていただけなので、一切問題ありません。
 さらに宮藤は、すべて恥ずかしい。まさに「恥の文化」を体現する日本人らしい日本人像なのかもしれません。現代人に一番感覚的に近く、真っ当な羞恥感情を持ち合わせていると評価できるでしょう。

エーリカとゲルト、カールスラント(ドイツ)軍人の羞恥心

 結局、さっぱり理解できないのは残るエーリカとゲルトです。まずエーリカの羞恥心にまつわる行為を再確認してみましょう。

  • ×下半身裸で外出する「まーいっか」
  • ×下半身裸で階段付近ではしゃぐ
  • ×他人の脱ぎたて下着を穿く

 要するにエーリカにとって、下半身が裸であるという状況は基本的に羞恥心を喚起しないわけです。他者の下着を穿くのだって、恥ずかしいという精神的問題からではなく「スースーする」という肉体的問題からでしかありません。つまり「スースーする」ことがなければ、彼女は下半身裸のまま生活するのでしょう。それを見て赤面するゲルトがいても、それは変わりません。すなわちエーリカから見たゲルトは、下半身裸であるのを見られても恥ずかしくない相手ということになります。対するゲルトの場合は次のようになっていました。

  • ○他人(エーリカ)が下半身裸なのを見る
  • ×自分の穿いている下着を他人の面前で脱いで、他人(宮藤)に穿かせてあげる「何を遠慮することがあるか。変な奴だ」

 一見、矛盾するかのような羞恥心観のように思われます。自分が下半身裸になるのは恥ずかしくなく、だが他人が下半身裸なのは恥ずかしい。ここでさらに詳しい2点目の状況を説明すると、目の前で下半身裸の宮藤を見て、それを憐れみ同情し、自分の穿いている下着を提供しようとしているのです。つまりゲルトが下半身裸の人物を見るときの反応には、次のような違いがあるのです。

  • エーリカの下半身裸姿には、羞恥心を感じる
  • 宮藤の下半身裸姿には、同情を感じる

 この違いには、ゲルトとエーリカ、宮藤の間での関係性の違いが如実に現れていると考えられます(もちろん、どの程度見えてはいけないところが見えてしまったか、という問題もあるとは思います。モロ見えとチラ見えの違い)。
 いくら憐れみ同情しかつ自分がリーダー的、年長者的立場であっても、現代人の感覚から言えばそう簡単に自分の穿いている下着を他人に提供しようとは思わないはずです。よって、二人のカールスラント軍人の行動を総合すると、どうやら下半身裸であることや他人の下着を貸し借りすることに対する障壁が低いのではないかと想像できます。それが何故だかは分かりませんが、二人ともカールスラント(ドイツ)人なので、カールスラントの文化が背景にあると考えましょう。少し強引かもしれませんが、カールスラント(ドイツ)は以前のエントリで指摘したように、「華やかなヨーロッパ文化の影で貧しさと度重なる戦争を生き抜いてきた」国家です。貧困の中で、他者と下着を共有したり、また下着を穿かないといった行為が普通にあったのかもしれません。乱暴な想像ですが。
 以上のように考えると、ゲルトの2つの行動のうち、宮藤に対する行動の方が普通の行為だと考えられます。逆にエーリカに対して羞恥心を感じることから、ゲルトから見たエーリカの関係性が特別であるのではないかと想像できます。そう、「ゲルトはエーリカを性的に特別な対象として見ている」という仮説が否応なく立ち上がらざるを得ないのです。どっひゃぁ!

「パンツのようなもの」と羞恥心

 先の例では「裸になること」を羞恥心喚起行為の例として挙げましたが、現代においては「下着を見られること」というものもほぼ同様の行為です。これはともに「性的刺激を他者に与える」行為であり、だからこそ羞恥心を喚起します。共同浴場で羞恥心を感じないのは、その環境のルールが他者によって性的に意味づけされないからです。
 『ストライクウィッチーズ』の世界ではそのキャンペーンコピィの通り、「下着を見られること」が「性的刺激を他者に与える」ものではありません。これは同性、異性関わらず、他者の前で下着を丸出しにしていることから、下着そのものが裸とは異なった意味を持っていると分かります。日本人的な感覚で言えば、「みんな同じ格好じゃん。だから恥ずかしくないもん!」ということでしょう。それが当たり前の常識である世界では、下着は性的シンボルではないのです。
 つまり下着が性的シンボルである、という現代的な感覚がそもそもの誤りなわけです。フィクションとはいえ作中の時代設定は1940年代、時代背景からいっても下着はあくまでも性器を隠すための布に過ぎず、性的シンボルではないとも考えられるかもしれません。だから、『ストライクウィッチーズ』の世界において、このような格好が恥ずかしいわけがないのです。「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」というのは極めて現代的なキャッチコピィであり、実際作中で登場キャラクタがそんなことを口に出したりはしません。そういう概念自体がないのですから。このコピィでは「パンツじゃない」ことが注目されていますが、実際はそれすら重要ではないのです。「パンツだって恥ずかしくないもん!」という世界なのですから。

まとめ

 少々長いエントリになってしまいました。結論ですが、「パンツのようなもの」とフィクションの中での羞恥心について考察していたら、思わぬ「真実」を見つけてしまいました。ルパンを追っていたら贋金工場を見つけてしまった銭形警部になった気分です。最後にその真実?をもう一度記しておきましょう。
 ゲルトはエーリカを性的な対象として見ている!
 どっひゃぁ!

追記

 一応同人誌ですが限りなく公式に近いという『ストライクウィッチーズ アフリカの魔女』を読了しました。小説、初期プロットは勿論のこと、野上武志さんによるまんがが凄く良かった。他のメディアで描かれていない男たちの戦いがそこには描かれています。ジャイアン風に言えば、目から汗が出ます。やっぱし、小説版で顕著ですが、『ストライクウィッチーズ』は「共闘」というのがひとつのテーマなのでしょう。超お勧め。とらのあな通販にはまだ在庫があるみたいなので、ファンなら必読。

*1:少なくともシャーリーのは「ズボン」らしいけれど、じゃあその下に穿いている白い三角形の布切れは何ですか?ズボンの重ね穿きなんでしょうか?ちなみにペリーヌが肌に直接はいているものは「ズボン」みたいです。

丁寧に作られた(?)『ひだまりスケッチ×365』OPの画面サイズによる違い

 現在絶賛放送中の『ひだまりスケッチ×365』。シャフト制作によるきめ細やかな映像&独特な演出も話題になっていると思われます。そんな『ひだまりスケッチ×365』のキーステーションであるTBSおよびBS-i(TBSのBSデジタル版)ですが、この放送局で流れるアニメーションには妙な決まり(?)があります。
 それは16:9のワイド制作にも関わらず、地上波では両端を切って(サイドカット)4:3のノーマルで放送するということです。
 いまだに何故そのようなことが行われているのか理解できませんが、おそらく数週遅れで放送されるBSデジタルに配慮しているのでしょう。って理解できてますね(笑)。
 ただそのことには勿論、弊害があります。自分が初めて「こりゃねぇな」と思ったのが『ああっ女神さまっTVシリーズ(第一期)のエンディングでした。石田燿子『願い』のサビ前のカットなのですが、黒を背景に画像がどんどん縮小していくというもので、4:3の全画面で見ていた画像が縮小されるにしたがって16:9の全貌が見えていくという興醒めなものでした(嗚呼、うまく伝わっているか不安だ……。見てもらった方が早いのですが、YouTubeで探してもありませんでした。残念)。画面サイズに対して縮小していくのだから、4:3画像で縮小していくか何かしらの対策を打てるはずなのになあ、なんて思ったものでした。ちなみに当時はBSデジタル視聴環境下になかったため、16:9のワイドでどうなっていたのかは未見です。
 しかし、それはそれで仕方ないと考えていたのも事実です。そんな中、『ひだまりスケッチ×365』公式サイトの「与太日記」(2008/08/01)で以下のようなことが書かれていました。

地上波(TBS・MBSCBC)は両端を切って4:3にして、
収まりが悪い時は絵を動かしたりして調整して放送しているのですが、
ときどき本当にどうしようもないカットが…(´・ω・`)


例えばOPのとあるカットなんですが…(OP169)
ゆのっちと沙英さんがあまりにも(´・ω・`)なので、
(OP43)シャフトさんが地上波用に作り直してくれたりしています。(OP43A)


他にも何カットかあったりしますので、
よろしければ探してみてくださいませー(´ω`)ノ

http://www.tbs.co.jp/anime/hidamari/08special/yota_diary.html

 
 該当カットは、そのまま両端を切ると、左端のゆのと右端の沙英の体が切れてしまうため、横サイズを揃えて上部を新規に追加しています。何もないと不自然な画面上部に「HIDAMARI」という文字を入れていたため、その違いは見ていても分かりやすかったです。でも、そのようなカットが「何カットかある」というのですから、探してみようと思いました。
 方法としては、16:9ワイド版と4:3ノーマル版をとにかく比較。はじめは動画編集ソフトで不透明度50%で重ねた動画を作り、それをじっくりと観察。怪しいところは画像キャプチャし、画像編集ソフトで重ねて確かめる。だけど、横位置をずらしているカットはあるものの、作り直しカットが全然見つからない!本当にこのような作り直しカットがあるのか不安になっていました。よくよく文章を読み直すと、どこにも「オープニングにある」とは書いていないし……。
 ですが、何回か見ていて1箇所だけ発見できました。それは次のカット!
 

 ずばり「にゃ〜ん」カットです。ゆのパンツです。最大の違いは「にゃ〜ん」の文字が小さくなって画面に収まるようになっています。さらに縦のラインの間隔が4:3ノーマルの方が少し狭くなっています。ゆのが痩せたのでしょうか?下の重ねた画像(不透明度50%)を見ると、そのままサイドカットした場合では「にゃ〜ん」の文字が入りきらないのが分かります。
 これだけかよっ!だけど公式ページの言葉を信じるならば、他にもあるかもしれません。単純に自分の能力が低くて、探せなかっただけかもしれません。もし知っている人がいたら、教えて欲しいものです。それでも、このようなほんの少しの心遣いが大変嬉しい一視聴者の自分でございます。

ワイド制作物を両端カットすることに対する個人的見解

 そういう契約で作っている(=勝手に加工しているわけではない)のだから、それ自体には問題はありません。ただ制作者は大変だなあ、と思います。最近では「スタジオジブリ・レイアウト展」@東京都現代美術館が開催されるなど、レイアウトに対する評価(というか、アニメーション制作におけるレイアウト自体)に注目が集まっているように思われます。両端を切られてもそれなりに見られるように制作するということは、どうしたってワイド画面のポテンシャルを100%引き出すことはできないわけですから。それは例えば、DVDとしてTV画面で見られるのまで考慮にいれて映画を制作するようなものです。それって、不可能ですよね。仮にそれができたとしても、それは映画制作とは異なる才能だと思いますし。だからこそ、TBSもこのわけわかんない慣習を捨てて、地上波でも両端カットでない映像を見せて欲しい、と思うのです。だけど、制作者は両端カットを気にして制作しているのかなあ。個人的には少し疑問ですが。
 追伸:大和田秀樹先生の新作『ぶっちぎりCA』(3)&『ムダヅモ無き改革』ですが、連動キャンペーンを打っている割には『ムダヅモ』がどこにもないんですけどっ!どうした竹書房っ!もっと頑張れっ!

国民性や血液型性格分類を完全に否定できますか

 前回のエントリ『ストライクウィッチーズ』と『ヘタリア』から学ぶ国擬人化を受けての内容になります。未読の方は是非読んでいただきたいですが、少々長いので別に読まないでも結構です。どっちだよ!
 改めまして。前回のエントリでは、『ヘタリア』という国擬人化まんがを補助線に『ストライクウィッチーズ』という多国籍キャラクタアニメの登場人物を検討することで、国擬人化の極意すなわち国民性のあぶり出しを行おうという意図がありました。『ヘタリア』は国をそのままキャラクタにしているので、基本的に国自体および国民性を由来とするキャラクタ造詣が行われています。一方の『ストライクウィチーズ』においては国籍の異なる登場人物が数多く登場するだけなので、そのキャラクタ造詣は国民性を反映した典型的○○人像だけに由来していません。その比較検討において唯一大きな違いが出たのが、リネット・ビショップというイギリス出身(作中ではブリタニア連邦)キャラクタでした。
 リネット・ビショップはおっとりマイペースで心優しいドジッ子という性格付けがなされています。一方、イギリスのイメージは意地っ張りで負けず嫌いで暴れん坊だが、実は意外と良い奴というツンデレの性格なのです。あまりにも性格が違いすぎるので、まあ国民性とは無関係なひとがいても良いだろう(どこの国にだって善人もいれば悪人もいるし、文化系もいれば体育会系もいるさ)とスルーしてやっつけてしまいました。しかしコメント欄で「リネットの性格はどちらかというとカナダっぽいなあと思いました」と言われてハッとしました。
 実はリネット・ビショップはイギリス出身なのですが、モデルキャラクタ(『ストライクウィッチーズ』の登場人物にはそれぞれモデルとなった実在の人物がいます)から推測するにカナダの血が入っている可能性が高いのです。それが真実すなわちイギリス育ちのカナダ人だった場合、その性格にはイギリス的なものとカナダ的なもののどちらが色濃く反映されるのでしょうか。それは性格が先天的なものなのか、後天的なものなのかという次元の話になります。
 性格は先天的なものだ、というといささか暴論に聞こえるかもしれません。学術的には性格は気質という先天的傾向のあらわれであると考えられているはずです(違うかも……。違ったらすみません)。しかし日常生活を送る上で表面に現れてくるような「性格」は先天的なものだけではないと皆さん感じるのではないでしょうか。自分もそう考えています。犯罪者が遺伝子レヴェルで決定されるわけではないのと同じです。
 そもそも国民性を定義するとき、その国民の血が流れていることに由来する(先天的)と考えているのか、それともその国で生まれ育ったことに由来する(後天的)と考えているののどちらでしょうか。答えは明白で後者であり、国民性はその国の風土や歴史に起因すると考えられています。しかし現代のように物理的移動が容易でない時代であれば、その国で生まれ育つこと(先天的)とその国の血が流れていること(後天的)がほぼイコールになり、その区別はないでしょう。
 少し話は変わりますが、世の中には血液型性格分類という厄介なものがございます。「厄介なもの」と書いたのは、どうにもこの血液型性格分類を過信する余り日常生活が脅かされているひとや、また血液型性格分類を憎む余り否定信者になり日常生活が脅かされているひとが少なくないからです。個人的意見としては前者は見ていてあまり気持ちが良いものではありませんが一方では微笑ましくも思っており、逆に本当に厄介なのは後者であると思っています。なんでそんなに血液型性格分類を目の敵のようにするのか、自分には理解できません。彼らは一様に「非科学的だから」「統計的証拠がないから」「血液型差別が存在するから」「日本にしか存在しないから」「そもそも4つに分類って」なんてことを言います。確かに間違ったことは言っていないと思いますし、B型の自分は面と向かって「B型の人は……、ねぇ」みたいなことを言われて少々腹が立った経験はあります。
 血液型分類は先天的なものに由来する性格分類です。前述した国民性とはそこが異なります。しかし、少し考えてみてください。例えば、A型のひとは几帳面だとします。A型の子供が産まれるには、少なくとも片方の親がA型である可能性が高いです(またはAB型)。よって、A型の親の行動を子が倣えば、A型の几帳面という性質は代々受け継がれることになります。性格が育まれる外的環境、その中でも最も小さな社会である家庭において血液型の偏りが存在する可能性が高い以上、血液型はただの先天的条件ではなくなり家庭環境という後天的条件と見分けが付かなくなります。
 今の説明では、血液型を家庭環境へ拡大解釈しました。さらに人的流動の少ない社会においては上述の家庭での議論が国・民族にまで拡大できます。さらによく知られていることですが、日本人にはA型が多いです。しかし、アメリカはO型が多いですし、中国ならB型が多いです(世界の血液型分布)。こうなってくると国民性と血液型の相関まで考慮できるようになるかもしれません。
 個人的には血液型性格分類を信じていません。しかし上述のように、何らかの傾向がある可能性がないとは言い切れないとも思っています。国民性というものも、うすらぼんやりとして良く分かりません。ただ国民性、たとえばアメリカ人は陽気で奔放であるとか、ドイツ人はルールに厳しいとか、一般の人はそれなりに信じていると思います。その原因は実際のアメリカ人、ドイツ人をよく知らないからだと思います。血液型はA型っぽいのにB型の人ととかを沢山見ていると思います。だから簡単に否定できます。しかし実のところ、国民性も血液型性格分類も大きな差はありません。そう考えて見えてくるのは、性格分類というものがいかにナンセンスであるかということだけです。十人十色、ってやつです。だから目くじら立てている血液型「否定」信者に言いたいのは、もうちょっと精神的余裕を持って生きようぜ!というただそれだけなのです。
 一応最後になりましたが、発端となったリネット・ビショップについて。リネットの性格が後天的条件であるイギリス(=社会環境)に由来するのか、それとも先天的条件であるイギリス(=家庭環境)に由来するのか、それは分かりません。それでもリネットはリネットであり、それで十分だと思います。と前回のエントリを完全否定(笑)したところで、本エントリはこれにてお開き。