『ストライクウィッチーズ』と『ヘタリア』から学ぶ国擬人化

 どうやら皆パンツがお好きなようで(笑)。「SW」といったら『スターウォーズStar Wars)』か『ストライクウィッチーズ(Strike Witches)』だっ!いやいや『サクラ大戦(Sakura Wars)』だっ!何だとっ!表に出ろ、この野郎っ!……そんな論争がいたる街角で行われているという噂(嘘)の『ストライクウィッチーズ』ですが、その愛らしい登場キャラクタたちには大戦中の各国エースパイロットがそのモデルキャラクタとして存在するということを以前のエントリでも指摘したことがありました。相変わらず詳細はまとめWikiとかを見ていただきたいのですが、『ストライクウィチーズ』のキャラクタデザインにはそのモデルキャラクタの存在が大きく影響を与えていると考えられています。
 このような背景を持つ作品は不謹慎だといわれかねない危うさを持っているのは事実です。そもそも日本はあれだけの悲惨な体験としての戦争を過ぎ去った歴史として封じ込め、かたやエンタテイメント萌え作品として消費していって良いのか、という良識ある「オトナ」たちの声も聞こえてきそうです。そういう意味ではパンツズボンもといパンツのようなものの効用というべきか、眉をひそめるタイプのオトナは一目見た時点で裸足で逃げ出す、という素晴らしい構造になっています。いやぁ、パンツって本当にいいもんですね!
 それぞれのモデルキャラクタからキャラクタを創造する際、モデルキャラクタの特徴や生い立ちなどを考慮してデザインされているのが分かります。例えば坂本美緒の右目に関してはモデルキャラクタである坂井三郎が戦闘中の負傷で右目が失明同然になっていたことに由来しますし、シャーロット・E・イェーガーが超音速飛行を目指しているのはモデルキャラクタのチャック・イェーガーが史上初の超音速水平飛行を達成したエピソードに由来します。ただ原典を参照しているのはそれだけではなく、外見のデザインから使い魔の種類(例の獣耳と尻尾)、使用武器にストライカー・ユニット(足にはめている機械)のデザイン、戦闘スタイルや性格を含めたプロフィール、そしてパンツズボンのデザイン(!)にいたるまで様々です。以前のエントリで誕生日のことを書きましたが、彼女らの出身国もまたモデルキャラクタと同一になっています(作中では架空の名前になっていますが)。
 この出身国というプロフィールもまた、キャラクタデザインにおいて大きな影響を与えていると考えられます。すごく分かりやすい例としては、アメリカ空軍のチャック・イェーガーをモデルとしたシャーロット・E・イェーガーが巨乳キャラなのは、おそらくアメリカという点からの発想と考えられるでしょう*1。そういう意味では、『ストライクウィッチーズ』のキャラクタ造詣は一種の国擬人化と捉えることが出来るかもしれません。
 そこで思い出すのが、ド直球で国擬人化をやっている日丸屋秀和Axis powers ヘタリアタイトルから想像できるようにイタリアを擬人化した歴史コメディで、2つの世界大戦のエピソードを中心したまんがです。『ストライクウィッチーズ』も1944年が舞台ですので、ほぼ同時期の世界を記述した作品といえるでしょう。『ヘタリア』は主人公のイタリア(キャラクタの名前がそのまま国の名前になっています)をはじめとして、そのキャラクタデザインは前述の通りド直球の国擬人化(あるいは国民性擬人化)になっています。
 そこで本エントリでは『ヘタリア』を補助線に『ストライクウィッチーズ』における各国キャラクタを比較検討することで、国擬人化について学びたいと思います。しかも運の良いことに『ストライクウィッチーズ』が女子バージョン、『ヘタリア』が男子バージョンになっているのです。まずは両作品のキャラクタをざっとご覧ください。以下、国別に見ていきたいと思います。またキャラクタ説明ではWikipedia該当項目およびまとめwiki「ヘタリア」「ストライクウィッチーズ」を参考にさせていただきました。


 上は『ストライクウィッチーズ』。下は『Axis powers ヘタリア』。……書かなくても分かるよね、こんなこと。

*1:勿論それだけではなく、チャック・イェーガーの愛機の愛称でまた彼の妻の名前でもある「グラマラス・グレニス」にも由来します。小説版「スオムスいらん子中隊」のキャサリン・オヘアも合わせて考えると、アメリカ=グラマーの発想ではないかと思えます。

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西尾維新デビュー前の投稿時代の記録

 やっとこさ『ファウスト』Vol.7に手を付けられるようになりパラパラめっくていると、そこからは何ともいえない懐かしさとそれでもやっぱり無慈悲な時の流れの両方が感じられます。先鋭的、というか本当に価値ある部分は中国特集だけかもしれません。宇野常寛ゼロ年代の想像力』で「セカイ系」から「サヴァイヴ系」に、『ファウスト』的なラベリングを借りるなら「新青春エンタ」から「新伝綺」へ転向したと指摘されていた『ファウスト』ですが、再び原点に回帰したような印象を受けました。ということは、時代錯誤と言い換えてもよいのかもしれません。しかしそんな『ファウスト』の転向、そして西尾維新の転向に追従していけなかった自分のような読者からすれば、今回の『ファウスト』は懐かしく嬉しいものですが、同時にその時代錯誤感を嫌が応にも実感してしまいます。インタビューという名の太田克史対談なんかもかなり『ファウスト』くさいですし、特に佐藤友哉×西尾維新対談が特筆すべき懐かしさです。この対談はかなりぬるいですが、ぬるいなりに彼らの走り続けてきた数年間の重みと、そして講談社ノベルスが一時代を築いていたような気がしていたあの頃の読者たる自分(達)が透けて見えてくるようで、興味深くもありました。
 そんな中、やはりそろそろ西尾維新に対する自分の感情を決着させなければいけないような思いが湧いてきました。そういう意味で佐藤×西尾対談は興味深かったのですが、その中でふたりの創作姿勢の変化のようなものが語られており、西尾維新のデビュー前の投稿時代について言及されていました。読みながら、普通に途中から『ファウスト』を読んでいるような、新本格ミステリ寄りというよりはライトノベル寄りの読者には伝わらないのではないかな、と妙な老婆心がむくむく。ということで西尾維新のデビュー前の記録を、資料的価値を信じて記しておきたいと思います。
 まず前提事項なのですが、西尾維新のデビューした「メフィスト賞」はミステリ雑誌『小説現代増刊 メフィスト』で行われてい公募新人賞で、文学賞の体を取りながらも編集者が下読みから受賞決定までのすべてを行うという、まんが業界に多い「持ち込み」を制度化したような賞です。だから通常の文学賞なら落選間違いなしであるが強烈な個性を持った人材が登場しやすい環境であり、大森望曰く「ミステリ界のバージェス頁岩・カンブリア大爆発」な当時の混沌とした状況を生み出した張本人でした。特筆すべきは、その選考過程は誌面上の「メフィスト巻末編集者座談会」で公開されるという点があります。「巻末編集者座談会」は講談社ノベルス20周年記念にそれまでの分が1冊『密室本』にまとめられ、読者プレゼントされました。今回はその『密室本』を元に、西尾維新デビュー前の投稿時代の記録を記してみたいと思います。

まずはその投稿の軌跡を

  1. 『悪童世界(わあるど・わあるど)』第13回1999年8月
  2. 『確実になにかがずれている』第14回1999年12月
  3. 『冥府の銀河鉄道』第14回1999年12月
  4. 『本当のことはなかった。』第15回2000年4月
  5. 『全然わかんない。』第15回2000年4月
  6. 『クイン8(くいんはち)』第16回2000年8月
  7. 『デス13(ですじゅうさん)』第16回2000年8月
  8. 『デヴィル14』第17回200年12月
  9. 『虐殺ドロナス』第17回200年12月
  10. 『並んで歩く』第18回2001年4月

 驚くべきことに西尾維新、デビューまでに10作品を投稿しているのです。期間にして1年8ヶ月。それでは順に作品の紹介をしていきます。当時の座談会内容から適宜抜粋・編集して紹介します。『ファウスト』の佐藤×西尾対談とともにご覧いただけると楽しめると思います。

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架空キャラクタパーソナリティとラジオドラマ『KONAMI STATION』開局によせて

 2008年8月27日よりコナミインターネットラジオサイト『KONAMI STATION』(http://573st.i-revo.jp/)がi-revoで開局されました。コナミは日本におけるインターネットラジオの先駆者とも言える存在で、この前身として1997年3月17日〜2007年9月30日まで運営されていた『db-FM』は、おそらく日本最古インターネットラジオサイトではないかと思います*1。明言はされていませんが、『KONAMI STATION』もまた『db-FM』の後継として存在していると解釈してよいでしょう。そしてその内容からはなかなか興味深い点が散見されます。

KONAMI STATION』初期ラインナップから見るコナミアニラジ戦略

 そんな『KONAMI STATION』の初期ラインナップは以下のようになっています。

 計8番組ですが、これらは2つに大別できます。
 まず『藤田咲の音がナル箱庭 WEB』と『小林ゆうの小林文明 拡大版』はサブタイトルから分かる通り、すでに存在するラジオ番組のWEB版です。ぶっちゃけてしまえばラインナップを充実させるための水増しみたいなものです。ただ元番組そのままでなく、拡大版という形でネットオリジナルにしてくるところは好感が持てます。ちなみに『藤田咲の音がナル箱庭』は地上波文化放送アニスパ!』内の箱番組、『小林ゆうの小林文明』は同じく文化放送白石涼子の聞かなきゃ☆そん♪Song!』内の箱番組です。またタイトルから分かる通り、タイアップラジオではなく、パーソナリティに焦点を当てたラジオ番組になっています。以前のエントリid:noir_k:20080619:1213838915の分類でいけば、1998年以降のコナミの方針に近い番組になっていると言えるでしょう。
 一方、上記2番組以外の6番組はすべてタイアップ番組になっています。『ラジオ幻想水滸伝』は『幻想水滸伝』、『ときめきメモリアルGirl's Station』は『ときめきメモリアルGirl's Side』、『悪魔城ドラキュラ ラジオクロニクル』は『悪魔城ドラキュラ』、『Radio QMA!!』は『クイズマジックアカデミー』のタイアップです。さらに『悠久の学び舎Radio』はこのための(?)オリジナルコンテンツ『悠久の学び舎』のタイアップであり、『ときメモ!ラジオ』も派生コンテンツですがこのためのオリジナルになっています。さらに特徴的なのが、これら6番組はすべて番組中でオリジナルのラジオドラマを内含しているという点です。そのようなラジオドラマ+トークという懐かしい昔ながらのアニラジフォーマットと自分は久し振りに出会いました。

地上波ラジオから姿を消したコンテンツタイアップアニラジ

 いま「昔ながらのアニラジフォーマット」と書きましたが、これが崩れたのは一体いつ頃からだったでしょうか。そもそもいわゆるアニラジはその多くがタイアップ番組として存在していました。つまり声優自体をラジオパーソナリティとして受け入れているのではなく、あくまでもタイアップコンテンツが主であり従として声優が存在するという形式でした。例えば、あまり古いものではありませんが、声優パーソナリティラジオとしての側面が強い『緒方恵美の銀河にほえろ!』(1996〜1998年)ですらその正式タイトルは『メルティランサー緒方恵美の銀河にほえろ!』であり、ゲームソフト『メルティランサー』のタイアップ番組として、番組中でラジオドラマが放送されていたくらいです。
 そのような現象の分かりやすい事例があって、それはアニラジ帯番組として存在したTBSラジオ『ファンタジーワールド』(1995〜1997年)とTOKYO FMKADOKAWA電波マガジン』(1997〜1999年)です。ともにメインスポンサは角川書店でした。これらを比較すると、特定コンテンツタイアップ番組*3の困難さが分かります。
 ラインナップ詳細はWikipediaの該当項目を見ていただきたいのですが、『ファンタジーワールド』時代は『センチメンタルグラフティ』、『フォーチュンクエスト』、『卒業』、『卒業M』、『LUBNERシルバースターストーリー』、『聖痕のジョカ*4』、『CLAMP学園探偵団』、『セイバーマリオネットJ*5』、『MAZE爆熱時空』、『魔法少女プリティサミー』、『神秘の世界エルハザード』……とそうそうたるコンテンツタイアップ番組が存在していました。一方でメディアタイアップ番組*6としては『声優グランプリ』、『Tokyo Walker』、『Game Walker』、『Aska』、『ドラゴンマガジン』……とこちらも豊富に存在します。しかし、さらに時の進んだ『KADOKAWA電波マガジン』時代になるとコンテンツタイアップ番組は見当たらず、メディアタイアップのみになってしまいました。
 そこにはいくつかの原因があります。例えば本来メジャーメディアであったラジオ深夜枠自体が衰退したという状況もあります。またコンテンツタイアップアニラジの主眼が新規客層の開拓にあるのか、それともファンの固定化にあるのか、といった違いもあります。またアニメタイアップの場合、1クール刻みの放送期間や莫大なコストが問題なのかもしれません。いずれにせよ、コンテンツタイアップ番組は1997〜1998年を前後して、地上波ラジオから撤退していきました*7

ネットラジオへの移行と『db-FM』『KONAMI STATION』

 ではコンテンツタイアップ番組はどこに行ったのか。それは勿論、ネットラジオに移行、展開していったのです。しかもネットラジオの自由さおよび法律&JASRACのうんたらかんたらからか、コンテンツタイアップでありながらそのタイアップ成分は宣伝コーナのみに集約され、一般的なパーソナリティ指向番組に内実を変えていきました。その詳細についてはいつか書くと思うので本エントリでは省略しますが、おそらくその第一人者がコナミであり『db-FM』であったのは間違いないと思っています。その『db-FM』が2007年で閉局したのは、ひとつの時代の終わりを象徴していました。以前のエントリid:noir_k:20080619:1213838915で指摘したことですが、コナミの戦略はコンテンツタイアップから所属アーティストに焦点を当てたパーソナリティ指向番組に移行していきました。しかし本来ゲーム会社というコンテンツホルダであるコナミにこの戦略は当然馴染まず、結局『db-FM』は長きに渡り、『田村ゆかり黒うさぎの小部屋』、『長沢ゆりかのハートフルカフェ』などで「お茶を濁す」(失礼)結果になってしまったのです。
 今回の『KONAMI STATION』開局にあたり、そのラインナップは再びコンテンツ指向*8に回帰していました。いわばアニラジの原点に回帰しようとしています。その善悪は分かりませんが、少なくともコンテンツホルダたるコナミの戦略として間違っていないと思われます。

シャロンとユリのRadio QMA!!』に注目だ!

 そんな『KONAMI STATION』初期ラインナップの中での注目すべきポイントは『シャロンとユリのRadio QMA!!』です。これはパーソナリティが浅野真澄広橋涼という点でも勿論大注目でもあるのですが、見るべきところはそこではありません。ずばりタイトルです。「シャロンとユリの」の部分です。これは最近めっきり見なくなった架空キャラクタパーソナリティの体をなしているのです。この番組においてはタイトルだけで、内容では一切関係ないですが(笑)。このような手法は最近では『ラジオツインエンジェル 聖チェリーヌ学院お昼の校内放送『えんじぇるタイム』』(水無月遥CV田村ゆかり、神無月葵CV能登麻美子)などがありますが、これは殆どラジオ番組を模したラジオドラマに過ぎません。過去に遡るとコナミ提供の『ソフィアの純愛』(ソフィアCV小西寛子)があります。この番組はかなり異質で、詳細はググってみると分かると思います。個人的に近さを感じるのは『潮崎渚の夢で逢えたら』(金月真美)でしょうかね。このようなタイトルの名付け方ひとつ取ってみても、コナミが方向転換を図ろうとしているのが透けてきます。
 というわけで、今後も『KONAMI STATION』に大注目なのです。

戯言

 一方でネットラジオでラジオドラマを流すのはどうなんだろう、と思う自分もいます。デフォルトの聴取法でシークバーをパチンと叩けば飛ばされてしまうわけですからねえ。そういう意味では、ネットラジオは本質的には宣伝番組に向いていないのかもしれません。『ギョーカイ時事放談』で一時期話題になっていましたが、宣伝コーナーをコーナーとしてまとめてしまうことのデメリットがこういうところにあります。ならば全面的に宣伝を散らばらせれば良いのですが、そんな宣伝臭い番組は聴きたくないし作りたくないというジレンマ。ラジオ業界は地上波、ネットを問わず、比較的楽しんで作っているような雰囲気がありますので、宣伝はあくまでも資本を騙くらかすための方法に過ぎない、と割り切って好きな番組を作るのが一番なのかもしれませんね。いずれにせよ、一視聴者としては楽しい番組が聴ければ結構です。それ以上の幸せはありません。

*1:いつものことだけど、調べてないよ。後で調べるかもね。

*2:1,2回目は中村悠一小西克幸。3,4回目は鈴村健一、小田久史。

*3:うまく表現できませんが、要するにある特定の作品のタイアップという意。

*4:というか、正式には大塚英志白倉由美系。マダラプロジェクトです。

*5:ちなみに自分が始めてアニラジを意識して聴取していた番組がこの『咲かせるぜ!度胸花』でした。

*6:これは特定コンテンツではなく、雑誌等のメディアとの連動番組という意です。分かりにくくてすみません。

*7:と断言するのは嘘になります(笑)。嘘も方便ってやつです。現在でも『テニスの王子様』なんかはあります。こんな風に脚注で言い訳をする小賢しさが、ちょっと嫌になります。

*8:と書くとコミュニケーション指向の対概念のような誤解を受けそうですが、ここではコンテンツタイアップという程度の意味です。

「バールのようなもの」と「パンツのようなもの」から考える『ストライクウィッチーズ』パンツ・ズボン問題

 話題騒然(?)のアニメ『ストライクウィッチーズ』。本来のキャッチコピーであるはずの「守りたいから私は飛ぶ!!」もなんのその、キャンペーンコピーの「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」の方が世を席巻しているくらい、このアニメにとってパンツというのは大きな要素になっています。
 このパンツについては大きな問題が潜んでいました。明らかにパンツなのに、キャンペーンコピーでは「パンツじゃない」。じゃあ一体あれは何なんだよ!という視聴者の突っ込みに対して物語からの返答はなく、今まで便宜上「パンツ」として文字表現するしか方法がありませんでした。
 そのような状況下で放送された『ストライクウィッチーズ』第7話「スースーするの」で判明した驚愕の真実。それは今までパンツと思われていたが「パンツじゃない」とされていた謎の下腹部衣装が、キャラクタの口より「ズボン」だと断定されたことですしかし、これですべての疑問が氷解したわけでは当然ありません。例えば、ここで指している「ズボン」の概念と現代日本に生息する我々にとっての「ズボン」の概念が同一である保証はないという点があります。そもそも『ストライクウィッチーズ』の世界では下着という概念があるのかも不明です。さらに「ズボン」という発音単語は日本独自のもので、しかも困ったことに日本語の「ズボン」に対応する英語は「パンツ」であり、また件の「ズボン」発言をしたキャラクタがドイツ人であるため、本当はパンツなのに日本人がいわゆるズボン(すなわち英語でのパンツ)を指して「ズボン」と呼ぶのを聞いて「パンツ=ズボン」だと思い込み、誤った表現をした可能性もうんたらかんたら。だけどこのような議論は「アレは何か?」という意味で本質的ですが、あまり建設的ではありません。そこでもう少し現実的な課題として、今後我々は『ストライクウィッチーズ』を語るときに「アレ」をどのように表現すれば良いのか、という問題があります。
 この問題はすでに顕在化し始めています。今『ストライクウィッチーズ』を語る際に「パンツ」という表現を用いたら、すぐさま「あれはパンツではなくてズボンです」という困った感じのコメントを頂戴することが出来るでしょう。なぜなら「ズボン」だと判明した以上、文字表現として「パンツ」を使うことは明らかな誤りだからです。だからって、あの布切れを「ズボン」と呼ぶことは倫理的に(?)できない!というひとも少なくないはずです。そこででてくる表現が「パンツのようなもの」です。
 ここで思い出すのがニュース等でお馴染みの「バールのようなもの」という表現。それはもう、Wikipediaに「バールのようなもの」という項目があるくらいですし、清水義範の短編小説に同名のものもあるくらいですし、敬愛なるkashmir先生の名著『○本の住人』(1)でも11ページ「ようなもの」で「いやでもバールようなものはつきものだし」(強調は引用者)とあるくらいです。「パンツのようなもの」という表現を考えるにあたって、前例事項ともいえる「バールのようなもの」について考えることから探っていこうと思います。
 そもそもなぜ「バールのようなもの」などという曖昧な表現がニュース等で用いられているのでしょうか。それはもちろん、正体不明だからにほかありません。つまり目の前にある棒状物質を見て「バールのようなもの」と言っているのではなく、痕跡などから棒状物質だと推定されるが決して特定はできない場合に、このような曖昧な表現を用いているのです。つまり棒状物質を代表して「バールのようなもの」という表現をしているわけです。そういう意味では『ストライクウィッチーズ』における「パンツのようなもの」とは根本的に異なる使用法だといえます。
 しかし「バールのようなもの」という表現は、『ストライクウィッチーズ』における「パンツのようなもの」はパンツのように見えるが決してパンツではない、という摩訶不思議な状況で使用する可能性もあります。例えばホームセンターにてバールが売られているが、商品の値札には「クローバー」と書いてあったとします。ちなみにこれは本当のことで、いわゆる「バール」は英語で「crowbar」と言うのです。貴方は友人にその状況を伝えるとしたら、どのような言葉を用いるでしょうか。素直に「あっちの棚でクローバーが安売りされてるよ!」なんて言ったところで、友人は口あんぐりです。「……ふざけんじゃねえ。クローバーなんて公園に行きゃ掃いて捨てるほどだぜっ!」とか「この野郎!CLAMPの回し者かぁ!」なんて。しかし、だからって「あっちの棚でバールが安売りされてるよ!」なんて言えますか?目の前には「バール」ではなく「クローバー」って明記されているのに。そうなったら折衷案として「あっちの棚でバールのようなものが安売りされてるよ!」となるのではないでしょうか。
 上の例をもとに「パンツのようなもの」について再び考えてみましょう。目の前に「パンツ」がある。しかし、それは「ズボン」だと明記されている。しかしその物質は自分の知っている「ズボン」では決してない。もしかしたら、どこかの国では「パンツ」のことを「ズボン」(≠いわゆるズボン)と呼ぶのかもしれない。しかし、他人に説明するには「ズボン」では誤解が生じる。それでも「パンツ」である確証はない。そこで貴方は叫ぶわけだ。これは「パンツのようなもの」だ、と。
 以上の議論を踏まえて、『ストライクウィッチーズ』におけるパンツ・ズボン問題を捉えなおしてみると、「アレ」は少なくとも作中では「ズボン」と呼ばれている物質であるのは間違いありません。しかし「バールのようなもの」よろしく、その正体は現代日本に生きる我々にとって未だ不明のままです。だからこそ我々は誤解を避けるためにも、あの物質のことを「パンツのようなもの」と呼び続けるべきなのです。そしてゆくゆくは「バールのようなもの」のように「パンツ」には「ようなもの」が必須となるような言語環境の構築を目指し、今年2008年の流行語大賞を目指しましょう!
 以下は戯言なのですが、個人的には「パンツのようなもの」という表現はなかなか冴えていると考えています。以前のエントリid:noir_k:20080815:1218760003でも書いたのですが、ブラウン管の中のパンツは絶対にパンツだとは言い切れず、パンツあるいは他の様々な物質である可能性が均等に存在する「不確定状態」なのです。そのことには皆気づいていても面倒くさいことなので気づいていない振りをし続け、やれパンチラが見えたやらなんだと騒いでいたのです。これは児童ポルノ関連法案におけるフィクション・ノンフィクション問題とも密接な関係があります。『ストライクウィッチーズ』で「パンツじゃない」と明言されたことにより、ブラウン管の中のパンツの存在に焦点が当たるようになりました。ざっくり言うならば、所詮絵は絵に過ぎない、ということです。ただの製作側の言い訳に過ぎないかもしれませんが、このような問題が提起されただけでも『ストライクウィッチーズ』におけるパンツには価値があったのではないかと思います。
 へへへ。今回のエントリはどこまでが本気なのか分かりにくいでしょう(笑)。

『きのこの山』vs『たけのこの里』論争と議論可能性

 お久しぶりです。約1週間のご無沙汰、いかがお過ごしでしたでしょうか。自分はその間、ネットはおろかパソコンにも触れない生活を送っていたのですが、帰宅してパソコンを立ち上げるやいなや、アクセスが異常に伸びていて吃驚。どうやら大手ニュースサイトでいくつかのエントリを取り上げていただいたみたいで、至極感激です。こんなこともあるもんですね。
 以前にid:noir_k:20080606:1212767490「講談社ノベルスにおけるライトノベル化現象の検証」というエントリを紹介していただいたこともあったのですが、ネタがネタだけにあまり人々の広い関心を惹くことは出来なかったようでした。やっぱし、みんな講談社ノベルスに対する興味はそんなに濃くはないよねえ。だけど、多くのはてブをいただくことも出来ましたし、届くべきところには届くんだな、とネットの力に感心しました。
 今回取り上げられたエントリはアニメ系の話題だったこともあり、沢山のひとに読んでいただけたようで、大変嬉しく感じています。これが世間に迎合するということなのでしょうか(笑)。なんて、冗談はそんなところにしておいて。世間の流れからは若干取り残され気味の当はてダですが、今後もどうぞよろしくお願いします。
 今回はこの貴重な経験を元に、アクセス解析からニュースサイトの情報リングを可視化する試みでもしようかと思いましたが、何だか意地悪な企画のようで気が引けましたので、やめにします。代わりに、友人と旅に出るたびに話題に上る「きのこvsたけのこ論争」における個人的意見と議論可能性について書いてみたいと思います。毎度のことですが、前振りが長くて申し訳ありません。そいやid:luxaky:20080810:p1「あなたの言いたいこと、5行で済むのに33行まで引き伸ばしてませんか?」なんてエントリがありましたが、自分には到底不可能な気がします。自分の溢れ出る(が、お節介かもしれない)エンタテインメント精神がこういう長い前振りを書いちゃうんだよ!望まれている望まれていないに関わらず、ねっ!
 先に「きのこvsたけのこ論争」と書きましたが、こんな名称があるのかは分かりません。要するに明治製菓のチョコレートスナックである『きのこの山』と『たけのこの里』のどっちが優れているか、という激しくどうでもいい論争であります。この論争は、おそらく日本の各地で同時多発的に勃発されていると予想されますが、あまり大事にならず個々人が個々人の意見をぶつけ合うだけで、合意への方向へすら向かっていない印象を受けます。その割には皆この論争が大好きで、どんなメンバで旅行に行こうとも、スーパのお菓子棚で『きのこの山』『たけのこの里』を見かけるたびに、この論争は立ち上がらざるを得ないのです。
 一般的に、論争における最大の問題点として、その議論可能性があげられると思います。すなわち、議論不可能な発言を繰り返していても、逆立ちしたって合意には至らないし、深い議論にも至らないのです。それは最近の例を挙げるなら、TBSラジオ伊集院光深夜の馬鹿力』内のコーナ「日常モンスターハンター*1においてモンスターと話が通じないのと一緒です。議論し、さらにそれを深めていくためには、それなりの発言をする必要があると考えられます。
 議論不可能な発言の最たるものに、ただの直感的な感想に過ぎず、その先を思考停止しているものがあります。例えば「きのこvsたけのこ論争」で言えば「『たけのこの里』は『きのこの山』よりも美味しいから好き」です。これはもうそれ以上の議論が不可能です。何故そう考えるのか、どのような具体的データからそのような結論を導き出したのか、そこにどのような客観的意味を与えられるのか。そのあたりを言葉にしていただかないと、その先にはなかなか進めません。それはどんな言葉を用いても良いと思います。難しい術語まみれでも良いかもしれませんし、直截的な言葉にも力はあります。何らかの論理展開をしてくれないと、いくら突っ込んだところで有意義な結果はついてこないでしょう。
 自分は「きのこvsたけのこ論争」に次のような意見を持っています。

 そもそも『きのこの山』『たけのこの里』の2商品のアイデンティティがどこにあるかといえば、ずばり商品名でも示されている形状でしょう。『きのこの山』はきのこの形をしているから、また『たけのこの里』のたけのこの形をしているから価値があるのです。だから、単純に味だけ比較していても問題外です。そもそも味というのは個人の感覚によるところが大きく、その比較はとても難しいと思います。極端な例を挙げれば、美味しいマグロの刺身と不味いマグロの刺身の比較は出来ても、美味しいマグロの刺身と美味しいマグロのカマ焼の比較が難しいのと似ています。もっと言えば、調理法のみならず、形状にすら大きく左右されるはずです。では、この両者のどちらが優れていると考えるのか。
 結論から言えば、自分は『きのこの山』を推します。事実、味だけならば『たけのこの里』が勝っていると感じています。それでも『きのこの山』を推すのは、きのこの形状をすることによってチョコレート部分とクッキー部分が容易に分離可能になっているのが、他に類を見ない独創的なものだと思うからです。それは味云々の問題ではなく、形状を生かした遊び心です。製作者がそのような食べ方を意図しているのか意図していないのかは知りませんが、このような食べ方は他のお菓子では真似が出来ません。他方『たけのこの里』は確かに美味しいですが、その形状があまり大きな意味を持っていないように感じます。トポロジー的に解釈(?)すれば、ただの平板クッキーの上面がチョコレートがコーティングされているのと何ら変わらないではないですか!だから自分は『きのこの山』を推すのです。

 いかがでしょうか。この文章では意図的に突っ込みどころを増やしたつもりです。個人的な意見としては、議論可能性はある程度のレヴェルまではとにかく情報量を増やすことで獲得できると考えています。換言するなら、突っ込みどころが多いほど、議論は活発になり深まっていきます。それは攻撃と防御の応酬による真面目な議論の話ではありません。日常生活におけるちょっとした会話に意味がないのをお嘆きの貴方は、是非議論可能な物言いをするようにすると深い議論になるかもしれません。
 などと書いてきましたが、実は日常会話でそのような議論可能性がそもそも必要なのか、という問題があります。最近、友人のひとりから、自分は他者とのコミュニケーションにおいて「説得」を指向しているのではないか、と指摘されたことがありました。個人的には十人十色という四字熟語が大好きですし、人と人とが完全に分かり合えるようなことはないと考えていますので、自分の意見が相手に許容されようがそうでなかろうが、正直どっちでも構わないと思っています。それでも他者からそのように見られてしまうということは、心のどこかでそれでも自分の思考を分かって欲しいと感じているのかもしれないな、と思いました。もしかしたら議論不可能なゆるいコミュニケーションは、その存在自体に大きな価値があるのかもしれません。
 久しぶりだったので、妙に長くなってしまいました。すみません。本当は今日は千葉紗子の誕生日だったし、どうやらパンツじゃなくてズボンだったと判明した『ストライクウィッチーズ』の話題でも書こうかとか、明日から施行される宇宙基本法について書いて新たな分野に手を伸ばそうかと考えていたのでした。まだ入手していないのですが、『ストライクウィッチーズ』EDテーマ『ブックマーク ア・ヘッド』のマスタリングが悪い意味で話題になっているらしい*2ですね。それにしても坂本少佐(CV千葉紗子)は大変素晴らしい(笑)。あと最後になりましたが、捕捉してくれた多くのニュースサイトの中に、敬愛するさらしる先生がいて嬉しかったです。さらしる先生、ラヴです!

*1:日常生活において遭遇した「モンスター」の目撃体験を報告。「モンスター」とは「モンスターペアレント」から来る造語で、理不尽なクレーマーを指す。

*2:風の噂では、CD音源を自分で調整してMP3化したものの方が高音質に聞こえるとか。ただ自分は未入手なのでうだうだ言いません。それが自分のポリシーです。未見のものに文句は言わない。文句を言うなら、ちゃんと見てから。だから映画版『20世紀少年』の悪口なんか絶対に言いません。これは逆説でも何でもないよ。ていうか長崎先生が脚本やってるから、ちょっと期待してるし。

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『ひだまりスケッチ×365』オープニング映像元ネタ大集合+おまけもあるよ

 前回のエントリid:noir_k:20080815:1218760003のラストで書いた『ひだまりスケッチ』OP関連の元ネタ紹介。「需要がありそうなら」と書きましたが、おそらくないでしょう(笑)。さらに今更感もプンプンですが、それでも記録的価値を信じて+個人的な好奇心から、ここに書きとどめておきたいと思います。『×365』の原作取り込み画像は多くて大変ですが、今までにアニメで扱ってきたあるいは今後扱われる部分ですので、興味深く感じました。おまけとして、1期無印OPおよび特別編OPのネタ紹介もします。
 取り込み画像の傾向から考察する『ひだまりスケッチ×365』の今後予想はページ中央にあります。

ひだまりスケッチ×365』オープニング

 以前のエントリid:noir_k:20080703:1215047055でも紹介したとおり、原作回帰とMAD逆リスペクトから、原作カットが大量に取り込まれています。その殆どは単行本第3巻の内容ですので、3巻片手にコマ送りしながら楽しんでください。

間奏1


 頭のサビの後の間奏(ゆのがリズムに合わせて踊る)で背後に流れるカット。右から順番に。

  1. 第3巻12ページ「そこに愛はあるのか」1コマ目(「二年生の教室行っちゃわない」)
  2. 第3巻16ページ「テンション↓」1コマ目(「バイト疲れたけど楽しかった」)
  3. 第3巻13ページ「そっか」1コマ目(「そっかー断ったのかぁ…」)
  4. 第3巻14ページ「思いをのせて」1コマ目(「数日後」「ううー寒ぅ」「寒がりねえ」「おはー」)
  5. 第3巻17ページ「いろんな意味で」1コマ目(「ゆのさんはいくつまでサンタさん信じてた?」)
  6. 第3巻20ページ「クリスマスチキン」1コマ目(「んでコッチが840円也」)
  7. 第3巻19ページ「このあとケーキも控えております」1コマ目(「ヒロのは…わっ指輪?」)
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ブラウン管の中のパンツとシュレディンガーの猫『ストライクウィッチーズ』

 巷間を騒がせているテレビアニメ『ストライクウィッチーズ』ですが、早々にテレビ局からの規制が入るなど、独特の感性に支えられた性的とも思える描写には正直完敗です。と意図的に意味不明な1文から始めてみました。皆さんこんにちは。コミケ74初日ですよ〜。
 ですが、「スカート等を穿かずにパンツ丸出しという服装」+「魔法モードに入ると獣耳と尻尾が生える」という点を除けば普通のお話*1で、はっきり言ってとても面白いです。どのくらい面白いかと言うと、主人公の名前が宮藤芳佳(みやふじ)というのですが、最近では脚本家の宮藤官九郎(くどう)を見かけるたびに宮藤芳佳を思い出してしまうくらいです。「飛っべぇぇぇ!宮藤ぃぃぃぃぃ!!」CV千葉紗子
 そのキャンペーンコピーであり、もはや作品を離れて浸透している感すらあるフレーズに「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!というものがございます。どうやら作中でキャラクタが下半身に常時装着している布切れとおぼしき物体(しかも常時暴露されている!)は、パンツではないらしいのです。「恥ずかしいか、恥ずかしくないか」という感情論はストリートビューのごみょごみょみたいなので傍に置いておいて*2、そもそも下着とは何なのかについて考えてみようと思います。
 パンツでないとしたら水着や服に類するものだと考えられるわけですが、分かりやすい比較として、下着(パンツ)と水着はどのように分類できるのでしょうか。
 ここで思い出すのが2005年に中国で起こった反日暴動沈静化に一役買った美少女・紗綾です。その水着写真で着用しているものが、実は水着ではなく下着だったという騒動がありました当時は児童ポルノ法違反なんじゃないか、というような論争になったのですが、そもそもポルノの定義が曖昧である以上、詳細は触れません。確かにグラビアアイドルなんかが着用しているのは水着ですが、その多くにおいて水に濡れるという目的を失っていることが少なくありません。まだビーチだったりプールサイドでその格好をしていれば水着の意義があるかもしれませんが、室内や水と無関係の屋外では水着と下着の本質的な差はありません。
 一応、紗綾騒動の際に問題となったのは、水着だと思われていたものが下着として売られているものだったからです。水着として売られるものは一般に下着に比較して布地が厚かったり複層(大事なところへの当て布)で、さらに耐水(透けない等)の材質になっています。そういう意味で、物質的には水着と下着には明確な差があるわけです。逆に言えば、ただ傍から眺めるだけだったら(精神的には)、どちらでも変わりはないはずです。むしろ頭の中で下着だと思い込めば下着だし、水着だと思えば水着です。そう、それはシュレディンガーの猫のように水着と下着のどちらでもありまたどちらでもない不確定状態であり、実際に触れるまでは分からないということになります。
 例えば、街中で上半身乳バンドだけの人に遭遇したとき、まさか街中で下着丸出しとは思いませんので、何らかの水着的なファッションだと思うのではないでしょうか。しかし、本当でしょうか。もしかしたら、下着かもしれませんよ。
 アイドルイメージビデオ(特にモデルの年齢が低い場合)によくあるシチュエーションとして、例えばセーラー服のようなものの下に白水着を着込んで、クルクルひらひらスカートをなびかせていることがあります。一般的な考えとして、セーラー服の下に着用するのは水着ではなく下着のはずです。セーラー服の下に水着を着ているのなんて、着替えるのが面倒という怠惰な女学生くらいのものです*3。しかも、それは触れることはできないブラウン管の中の出来事(こういう表現ももはや死語かもしれませんね)ですので、視聴者は頭の中で水着⇒下着の変換が容易に行えます。ああエロい。
 絶対に手の届かない二次元の世界・アニメーションの中では水着と下着に差はありません。すべては受け手の思考回路に依存しています。しかし作中キャラクタのメンタリティにおいては、そこに絶対的な差が出てきます。そして本人たちが「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」と言っている(?)以上、恥ずかしくないのです*4。それが水着であれ、下着であれ。あとは貴方がそれをどう捉えるかにかかっているのです。ああエロい。
 ただ下着がエロイのは普段見えないのに、時折ちらっと見えるからだと思います。チラリズムの美学、ってやつですね。例えば丸見えの下着カタログに興奮する人や、下着そのものに欲情する人*5はあまりいないとおもいます。その上に服があっての下着なのです。『ストライクウィッチーズ』というパンツ丸出しの世界観においては、あれは見えていて当然なのです。だからエロくないし、「ゾンビだから拳銃で撃っても大丈夫です」というカプコン的な果敢で意欲的で挑発的で崇高な態度のようすらに感じられます。……あんまし本気にするなよ(笑)。

kashmir『百合星人ナオコサン』(1)86頁より。ナオコサーン!
[追記:2008-08-16]

*1:どころか、極めてまっとうなビルドゥングスロマン。最近こういうまっすぐな成長モノは少ないですよね。

*2:自分のストリートビューに関する考えはid:noir_k:20080810:1218370509を参照。

*3:大島永遠『女子高生』の主人公・高橋絵里子みたいなタイプでしょうか。

*4:だけど捲っちゃ駄目だろう。確信犯的だよ。あとDVDのCMは駄目だよ。駄目すぎるよ(笑)。

*5:下着泥棒などの犯罪者にはいるようですが……

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