羞恥心に関する考察と隠されていた真実『ストライクウィッチーズ』
羞恥心。などというと、最近ではそれを微塵にも感じさせない某男性アイドル(?)ユニットを想像する方も少なくないかもしれませんが、「誇大妄想の被害妄想」(C)伊集院光な自分にとって、それは常に人生におけるテーマのひとつであります。地べたに座り込む若者、電車内で化粧をするOL、露出過多なファッション……。街を見渡せば変容した羞恥心がごろごろ転がっている、なんて論調が世間では数年前から取りざたされていたりもします。日本人論の祖たるベネディクト『菊と刀』に「日本文化は恥の文化、西洋文化は罪の文化」とあるように、羞恥心は日本文化の根幹をなしている重要な概念と言えるでしょう。
羞恥心。それは「恥ずかしく感じる気持ち」(大辞泉より)。まんが・アニメ的世界においては、頬を赤く染めるといった記号として散見される羞恥心ですが、それはどのようなときに噴出する感情なのでしょうか。そこには何かしらのルールが存在するはずです。当はてダでも度々言及しております『ストライクウィッチーズ』においては、そのキャンペーンコピィ「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」から明らかなように、この世界の論理とは異なった論理のもとに羞恥心が存在しているように見受けられます。果たして登場キャラクタたちは何を恥ずかしいと感じ、何を恥ずかしくないと感じるのでしょうか。本エントリでは、パンツのようなもの=ズボンだったと判明し物議をかもし出した第7話「スースーするの」をテキストに、登場キャラクタたちの持つ「羞恥心」について考察したいと思います。
「羞恥心」とは何か
羞恥心とは恥じる心、といってもあまり具体的ではありませんね。顔がカーッと真っ赤になって羞恥心を感じた経験を思い出せば分かるように、そう単純に類型化できるものではありません。その具体的分類は省きますが、大事なことは羞恥心とは自意識の問題であり、他者の目に自分がどのように映るか、ということなのです。
もっとも簡単な羞恥心が発揮されやすい例として、「裸になること」が挙げられます。ただ、もしこの世界に自分以外誰もいなかったら、裸になったときに羞恥心を感じる必要があるのでしょうか?はたまた、この世界の人々が全員全裸で生活しているとき、自分が裸になったからといって羞恥心を感じるのでしょうか?また、赤の他人の前で裸になるのは?それとも身内の前だったら?
その羞恥心を感じるレヴェルは様々に異なるかもしれません。ここで主張したいのは、「裸になる」という行為自体に羞恥心を感じるのではなく、その行為を行うときの諸条件によって羞恥心のレヴェルが変化するということです。そこにはある種のルールがあるはずです。
第7話「スースーするの」における羞恥心描写
パンツのようなものをめぐるドタバタを描いた『ストライクウィッチーズ』第7話「スースーするの」では、各キャラクタの行動からその羞恥心を読み取れる機会に恵まれています。まず第7話を精読(精視聴?)してみましょう。上から時系列で並んでいます。行為と対象が書かれており、頭の「×」は「恥ずかしくない(羞恥心を喚起しない)」、「○」は「恥ずかしい(羞恥心を喚起する)」という意味です。
以下共通の注意ですが、この世界では下着というものの存在があやふやです。その表記については下表を参照してください。
便宜上の表記 | 作中表記 | 説明 |
---|---|---|
下着 | ズボン | いわゆる「パンツのようなもの」 |
水着 | 服 | 宮藤、坂本が身体に直接穿いている「水着(スクール水着)のようなもの」 |
タイツ | ズボン*1 | ペリーヌ、エイラ、サーニャが「パンツのようなもの」の上に穿いている「タイツのようなもの」 |
- 基本設定:×下着丸出しで生活する
- シャーリー:×下着のみで歯磨きするのを他人に見られる
- ゲルト:○他人が下半身裸なのを見る
- エーリカ:×下半身裸で外出する「まーいっか」
- ルッキーニ:×お風呂での裸の付き合い「わーい!お風呂おっ風呂〜」
- 宮藤:×お風呂での裸の付き合い「わーい!お風呂〜」
- ペリーヌ:○全裸で他人に抱きかかえられる
- エーリカ:×下半身裸で階段付近ではしゃぐ
- エーリカ:×他人の脱ぎたて下着を穿く
- ルッキーニ:×他人の脱ぎたて下着を穿く
- ペリーヌ:○下着を着けずにタイツを穿く
- ペリーヌ:○他人の脱ぎたて水着を見てる
- 宮藤:○下半身裸で人前に立つ
- ゲルト:×自分の穿いている下着を他人の面前で脱いで、他人に穿かせてあげる「何を遠慮することがあるか。変な奴だ」
- 宮藤:○他人が目の前で下着脱ぐのを見る、他人が目の前で脱いだ下着を穿かされる
- 坂本:×人前で水着一丁になる
- 宮藤:○他人に自分の水着を手に取られる
- ルッキーニ:×他人の水着を手に取り、あまつさえ口にくわえて走り回る
- 宮藤:○裸の下半身を他人に見られる
- エイラ:○他人のタイツを穿く「ごめんっ!」
- ルッキーニ:×他人のタイツを首に巻く
- 宮藤:○下半身裸の状態で出撃する
- ペリーヌ:○下半身にタイツを直接穿いた状態で出撃する
- ミーナ:×他人の下着数枚を手に取る
- ルッキーニ:○下半身裸で公衆の人前に立たされる
意外と理解可能な彼女たちの羞恥心
これらの中には現実世界の論理で理解可能な類の羞恥心も多く含まれます。まずはそれらを取り除いてあげましょう。
特定環境下での羞恥心:共同浴場
まずは5,6番のお風呂での裸の付き合いがあります。共同浴場には共同浴場なりのルール(特に視線のルール)があり、普通に入浴するだけであれば必要以上の羞恥心が喚起されることはありません。そこで羞恥心が生じるとすれば、必要以上の自意識過剰などが原因としてあるはずです(例えば、もしこの場にリーネがいたとすれば、自分の巨乳にコンプレックスを持っている彼女のことですから、おそらく羞恥心を感じることでしょう)。
特定対象に対する肥大した羞恥心:憬れのあの人と……
またペリーヌの行動である7,11,12,23番も比較的理解しやすいです。7,12番での「他人」とは憧れの的であり擬似(?)恋愛対象である坂本なので、単純な「好きな人に何かされると恥ずかしい」という現象です。似ているのは20番のエイラの行動で、これもエイラがサーニャに抱いている感情を考慮すれば理解できます。同じ行為でも誰に見られるか、誰にされるか、というのは羞恥心を考える場合の大きな要素になってきます。
成長段階における羞恥心:無邪気な子供
ルッキーニの行動も意外と理解しやすいです。ルッキーニは自分の下着がなくなった状態で、他人の脱ぎたて下着を穿き、また逃走途中にいくつかの下着、水着、タイツなどを手に取り、口にくわえ、首に巻いてはしゃぎます。この一連の行動の根幹には、悪戯っ子という子供独特の無邪気な感情があると考えられます。悪戯心が羞恥心を上回ったと考えれば、十分理解可能です。
少しずれた常識下での羞恥心
また坂本、シャーリー、ミーナの行為も一般的です。まず坂本ですが、腐っても水着≠下着ですので、同性の面前で水着一丁になるのはまあ理解できます(が少しぐらい躊躇してもよさそうですが、それが竹を割ったような坂本少佐のキャラクタなのでしょう)。シャーリーの行動は男子には理解しにくいですが、下着がファッションの一部である女子にはそこまで抵抗がないのではないでしょうか。そういえば、6話でも皆そのくらいフランクな格好で談笑していました。最後にミーナはあくまでも職務として没収品としての下着、すなわち純粋に物質として他者の下着を持っていただけなので、一切問題ありません。
さらに宮藤は、すべて恥ずかしい。まさに「恥の文化」を体現する日本人らしい日本人像なのかもしれません。現代人に一番感覚的に近く、真っ当な羞恥感情を持ち合わせていると評価できるでしょう。
エーリカとゲルト、カールスラント(ドイツ)軍人の羞恥心
結局、さっぱり理解できないのは残るエーリカとゲルトです。まずエーリカの羞恥心にまつわる行為を再確認してみましょう。
- ×下半身裸で外出する「まーいっか」
- ×下半身裸で階段付近ではしゃぐ
- ×他人の脱ぎたて下着を穿く
要するにエーリカにとって、下半身が裸であるという状況は基本的に羞恥心を喚起しないわけです。他者の下着を穿くのだって、恥ずかしいという精神的問題からではなく「スースーする」という肉体的問題からでしかありません。つまり「スースーする」ことがなければ、彼女は下半身裸のまま生活するのでしょう。それを見て赤面するゲルトがいても、それは変わりません。すなわちエーリカから見たゲルトは、下半身裸であるのを見られても恥ずかしくない相手ということになります。対するゲルトの場合は次のようになっていました。
- ○他人(エーリカ)が下半身裸なのを見る
- ×自分の穿いている下着を他人の面前で脱いで、他人(宮藤)に穿かせてあげる「何を遠慮することがあるか。変な奴だ」
一見、矛盾するかのような羞恥心観のように思われます。自分が下半身裸になるのは恥ずかしくなく、だが他人が下半身裸なのは恥ずかしい。ここでさらに詳しい2点目の状況を説明すると、目の前で下半身裸の宮藤を見て、それを憐れみ同情し、自分の穿いている下着を提供しようとしているのです。つまりゲルトが下半身裸の人物を見るときの反応には、次のような違いがあるのです。
- エーリカの下半身裸姿には、羞恥心を感じる
- 宮藤の下半身裸姿には、同情を感じる
この違いには、ゲルトとエーリカ、宮藤の間での関係性の違いが如実に現れていると考えられます(もちろん、どの程度見えてはいけないところが見えてしまったか、という問題もあるとは思います。モロ見えとチラ見えの違い)。
いくら憐れみ同情しかつ自分がリーダー的、年長者的立場であっても、現代人の感覚から言えばそう簡単に自分の穿いている下着を他人に提供しようとは思わないはずです。よって、二人のカールスラント軍人の行動を総合すると、どうやら下半身裸であることや他人の下着を貸し借りすることに対する障壁が低いのではないかと想像できます。それが何故だかは分かりませんが、二人ともカールスラント(ドイツ)人なので、カールスラントの文化が背景にあると考えましょう。少し強引かもしれませんが、カールスラント(ドイツ)は以前のエントリで指摘したように、「華やかなヨーロッパ文化の影で貧しさと度重なる戦争を生き抜いてきた」国家です。貧困の中で、他者と下着を共有したり、また下着を穿かないといった行為が普通にあったのかもしれません。乱暴な想像ですが。
以上のように考えると、ゲルトの2つの行動のうち、宮藤に対する行動の方が普通の行為だと考えられます。逆にエーリカに対して羞恥心を感じることから、ゲルトから見たエーリカの関係性が特別であるのではないかと想像できます。そう、「ゲルトはエーリカを性的に特別な対象として見ている」という仮説が否応なく立ち上がらざるを得ないのです。どっひゃぁ!
「パンツのようなもの」と羞恥心
先の例では「裸になること」を羞恥心喚起行為の例として挙げましたが、現代においては「下着を見られること」というものもほぼ同様の行為です。これはともに「性的刺激を他者に与える」行為であり、だからこそ羞恥心を喚起します。共同浴場で羞恥心を感じないのは、その環境のルールが他者によって性的に意味づけされないからです。
『ストライクウィッチーズ』の世界ではそのキャンペーンコピィの通り、「下着を見られること」が「性的刺激を他者に与える」ものではありません。これは同性、異性関わらず、他者の前で下着を丸出しにしていることから、下着そのものが裸とは異なった意味を持っていると分かります。日本人的な感覚で言えば、「みんな同じ格好じゃん。だから恥ずかしくないもん!」ということでしょう。それが当たり前の常識である世界では、下着は性的シンボルではないのです。
つまり下着が性的シンボルである、という現代的な感覚がそもそもの誤りなわけです。フィクションとはいえ作中の時代設定は1940年代、時代背景からいっても下着はあくまでも性器を隠すための布に過ぎず、性的シンボルではないとも考えられるかもしれません。だから、『ストライクウィッチーズ』の世界において、このような格好が恥ずかしいわけがないのです。「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」というのは極めて現代的なキャッチコピィであり、実際作中で登場キャラクタがそんなことを口に出したりはしません。そういう概念自体がないのですから。このコピィでは「パンツじゃない」ことが注目されていますが、実際はそれすら重要ではないのです。「パンツだって恥ずかしくないもん!」という世界なのですから。
まとめ
少々長いエントリになってしまいました。結論ですが、「パンツのようなもの」とフィクションの中での羞恥心について考察していたら、思わぬ「真実」を見つけてしまいました。ルパンを追っていたら贋金工場を見つけてしまった銭形警部になった気分です。最後にその真実?をもう一度記しておきましょう。
ゲルトはエーリカを性的な対象として見ている!
どっひゃぁ!
『ストライクウィッチーズ』関連エントリ
追記
一応同人誌ですが限りなく公式に近いという『ストライクウィッチーズ アフリカの魔女』を読了しました。小説、初期プロットは勿論のこと、野上武志さんによるまんがが凄く良かった。他のメディアで描かれていない男たちの戦いがそこには描かれています。ジャイアン風に言えば、目から汗が出ます。やっぱし、小説版で顕著ですが、『ストライクウィッチーズ』は「共闘」というのがひとつのテーマなのでしょう。超お勧め。とらのあな通販にはまだ在庫があるみたいなので、ファンなら必読。
*1:少なくともシャーリーのは「ズボン」らしいけれど、じゃあその下に穿いている白い三角形の布切れは何ですか?ズボンの重ね穿きなんでしょうか?ちなみにペリーヌが肌に直接はいているものは「ズボン」みたいです。