日常生活の中で「生の実感」を獲得するためのヒント

 たまにははてなダイアラーらしく、はてな匿名ダイアリーに絡んでみようかと思います。とは言っても、匿名ダイアリーの流れって、すごく速いのな。あっという間に別の話題に移行してるわ(笑)。というか、もしかして匿名ダイアリーで話題になっていることを普通のダイアリーで触れるのって、ルール違反みたいな感じなのかしらん。よく分からないですが。というわけで、まずはネタ元紹介。ただあくまでも発想の原点に該当エントリが存在するだけなので、あまり気にしないでいただいても結構です。

本題

 宮台真司ではないですが「終わりなき日常」を生きる現代人たるわれわれにとって、日々の生活の中で「生の実感」を得るのは困難だと思います。生きているのか死んでいるのかわからず、ただ確実にゆるやかに死に向かいながら不透明な明日を繰り返す中で「生の実感」を得ようとしたって、それは到底無理なお話だと思います。充実した1日を積み重ねていく、とか、何の変哲もない日常・普通を愛するなんてことが「生の実感」につながるとか言われますが、そんなのは「出来れば良いね(笑)」くらいの感覚でしか捉えられません。もっと具体的、もっと目に見える形で提示されなければ、その実効性は低いのです。「がたがた言わずに『スカイ・クロラ』観に行けよ!」と押井守ファンなら言うかもしれませんが、そんなに簡単な問題でもないのは、当の押井ファンも分かっていることでしょう。あ、別に押井守ファンを馬鹿にしているわけではないですよ。本気と書いてマジで。

自傷行為と「生の実感」

 最近の事情はよく分からないのですが、リストカットなどをはじめとする自傷というのがあります。自傷というのは、一般的に自殺とはまったく別物と考えられていて、死ぬ可能性もなくはないが「死の仮想体験」を味わえるという側面があります。そのような行為に駆り立てられる心的原因のひとつとして、「生の実感」の欲求というのがあります。これは自傷に伴う痛み流血が、自分が生きているんだということを思い出させてくれるという考え方です。ここでは具体的な書名を思い出せませんが、10年位前に結構騒がれていた話題でした。多くの自傷行為の特徴は、ここであげた痛みだったりします。だから自傷予防として、自傷の衝動が湧き上がったときに、冷たい氷を握り締めるというのがありました。安全な痛みを与えることで、自傷の原因を潰し、衝動を抑えてあげようという対処法です。
 「生の実感」を得るために、上記の例では「痛覚」という感覚に訴えています。そのような刺激を与えることも、ひとつの方向性としては間違ってはいないと思います。間違っているのはその具体的手段で、多くの「痛覚」に訴える行為はたいてい何かしらの痕が残ります。それは肉体的なものに限らず、心理的・社会的なものも少なくありません。安全に痛覚に訴える行為は、なかなか難しいのです。ちなみに自傷は本当に危ないことなので、絶対にやめてください

「生の実感」の正体とその可視化

 そこで別の方向性を提示したいと思います。それが自傷のもうひとつの側面である「流血」です。人間が生きている(ここではもはや人間らしく生きているというレヴェルではなく、ひとつの生物として生きているということ)証拠が可視化されるとき、ひとは否応なく「生の実感」(もう一度言いますが、あくまでも生物としての)を感じられると思います。そこで人間が生きている、というのを逆に死の定義から考えて見ます。医学的な死の定義は、以下の3点です。

  1. 心停止(心臓<循環機能>)
  2. 自発呼吸停止(肺<呼吸機能>)
  3. 瞳孔散乱(脳<中枢機能>)

 逆にこれらを可視化してあげれば、ひとは「生の実感」を感じられると思っています。ただ脳の中枢機能を代表する瞳孔に関しては、そもそも可視化という単語の選択から分かるとおり、目で目を見るのは難しいので、除外します。その上で2点に関して、具体的行為として以下の2点を提示します。

  1. 献血(循環機能の可視化)
  2. 喫煙(呼吸機能の可視化)
献血

 そもそも自分は献血が結構好きです。どのくらい好きかというと、旅先でふらっと献血をしてしまう程度です。献血が可能になる高校生の時分、学校近くに献血ルーム(飲み食いまんが雑誌ゲームビデオし放題!)があり、かつ金欠の学生には良い暇潰しになったという不純(?)な出発点からですが、献血自体は立派な社会貢献行為です。皆さんも、レッツ献血
 そんな(どんな?)献血をするたびに感じることなのですが、腕に刺されたチューブから自分のどす黒い血液(これは静脈だからだと思います。これは実際に体験しないと分からないことでしょう)が吸引されていくのを見ていると、漠然と「嗚呼、俺はちゃんと生きているんだな」なんて感じるわけです。と同時に「リストカットで無駄な(失礼)血液を流すくらいなら、献血すれば良いのに」なんてことも感じていました。またただ流れるだけでは分からない血の暖かさが感じられる、貴重な体験でもあります。ちなみに18歳以上ならば、成分献血であれば2週間ごと、年間最大12回まで可能です。この制限の中であれば、健康への害はまったくありません。未体験の方も是非一度体験してみてください。

喫煙

 自分は喫煙習慣はありませんが、たまに喫煙します。ま喫煙自体は恥ずべき行為だと思っているので、知人の前では絶対に吸いませんが。で喫煙の効用ですが、ずばり呼吸の可視化です。
 普段は息をしていてもそれ自体は「ぬかに釘」な行為で、ほとんど無意識の行為です。意識してという意味を込めて大きく深呼吸しようが、「豆腐にかすがい」っぷりは変わりません。ただ冬になり気温が下がると、自分の呼吸が可視化されます。両手に向かって「はぁ」と白い息を吹きかけるとき、「嗚呼、俺はちゃんと呼吸が出来ていたんだなぁ」と感じる方もいるのではないでしょうか(期待)。自分の呼吸が可視化され、体内の気体が対外に放出され、空気と混じりあい霧散していく光景は、「生の実感」を確認できる行為だと考えています。それをいつでも意識的にかつ自発的に行えるのが、喫煙です。自分の呼吸が煙草の煙という媒体を通じて可視化されるのです。同じようなことを以前ラジオで伊集院光がぽつりと漏らした(大や小をではないですよ!)こともあったと記憶しています。煙草の害は散々言われていますし、マナーが悪い喫煙者が少なくなく、迷惑になっているのも分かります。ただ一方で、喫煙にはこのような心的効果もあるのではないでしょうか。

最後に

 最後に補足的に言及先に関する自分の意見を。これは喫煙問題に限りませんが、基本的に他人に迷惑をかけなければそれを制限するべきではないと考えています。それが(ある種の排斥を受けてきた)オタク趣味を持っているひとの共通見解だと思っているのですが、いかがでしょうか。逆に喫煙者側もその権利を行使するためには、他人に迷惑をかけないためのマナーを再認識する必要があるでしょう。ただこの論理を万人が容易に受け入れてくれるわけではないので、倫理的な訴えよりは、そうせざるを得ない環境作り(法整備と言った環境管理型社会の実現)で対応するべきだと考えます。

最後の最後に

 ちなみに本エントリは「日常の中での可視化」という部分に限定しています。そこを無視すれば、もう少し多くの「生の実感」の獲得方法があるでしょう。例えば循環機能であれば、心音をモニタリングするとか、腕をぎゅっと紐で縛るとか。呼吸機能では、限界まで風呂に潜るなんてのはどうでしょうか。
 また当エントリは、別に喫煙者を全面的に擁護したかったり、喫煙を推奨しているわけではなく、喫煙のひとつの効用を提示しているだけです。それに喫煙が100%の悪ってことになれば、冒頭で無理矢理取り上げた『スカイ・クロラ』なんてとんでもない映画ということになるし、昨年の映画『吉祥天女』もNG、もちろん『苺ましまろ』なんてもってのほかになってしまうわけです。個人的には困ります(笑)。だけど、日本においてはどんどん喫煙習慣は下火になっていく(予想)わけで、そのうち「デートの待ち合わせ、男の足元には沢山の吸殻が」みたいなテンプレートの表現が伝わらなくなりつつあるんだな、などと考えてしまうと少し残念です。ま、現代においてすらこんな描写はもはやとんでもないわけですが(笑)。
 ちなみにアメリカでは、2007年5月10日にMPAA(米国映画協会)が自主規制コードとして、喫煙描写を含む作品をR指定(17歳未満は保護者同伴)にするという方針を打ち出していますこれは成年、未成年問わず、すべての喫煙描写が対象になっています(ただし歴史的描写などの例外はあります)。このようなフィクションの中の喫煙描写というのはまた別の問題を孕んでいますが、個人的には「嫌な世の中だなあ」と思いながら秋の夜長は更けていくのでございます。