映像化によって失われる記号的リアリティ『とらドラ!』

 十月十日は萌えの日!そんな事実を初めて知ったのは、ラジオでおたっきぃ佐々木が喋っているのを聞いたのがきっかけだったと記憶しています。ざっと10年くらい前のことでしょうか。当時は「萌え」という単語がそろそろと拡大しつつあった頃で、やれ長崎萠が語源だとか、やれ恐竜惑星』の鷺沢萌(結城萌)*1だとか、やれ椎名へきるが『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』のヒロインよろしく「モエモエ」言っていたのが語源だとか、そういう時期でした。長崎萠という単語の選択からして、ちょっと懐かしさを覚えます。一度引退後、復帰の際に写真週刊誌でヌードを披露したのは、懐かしい思い出です。
 閑話休題
 結局、自分自身はその後の「萌え」の攻勢に追従できず、本能的・肉体的な「萌え」回路の獲得には失敗しましたが、現在においてナチュラルに「萌え」を受け入れることができているので幸いでした。何でだろ?ていうか、恥ずかしいな。おい。こんなに萌え萌え書いているのは、初めてだよ!まあ、十月十日萌えの日だからご勘弁
 というわけで*2、先日放送が開始された『とらドラ!』についてです。

高須竜児の「怖がられ」キャラク

 内容についてはとりあえずおいておいて、第1話を見て気になったのが主人公・高須竜児(CV間島淳司)のキャラクタ造形。公式サイトのキャラクタ紹介から引用すると、「父親譲りのためか生まれつき目つきが鋭いせいで、クラスメイトや初対面の人には不良だと勘違いされている」とのこと。だけど、主観的な感想になってしまいますが、そこまでの外見には見えないんですよねえ。妙に長身だったり、冒頭から饒舌な独り言を繰り広げるのもあいまって、なぜだか自分の中では『ちょびっツ』の本須和秀樹(CV杉田智和)と重なっているんですけれど、その本須和秀樹の目をちょいと吊り上げたくらい。あ、ここで『ちょびっツ』を引き合いに出しましたが、特に深い意味はないです。スタッフ的なつながりとか(調べてないけど)おそらくないと思います。

高須竜児(とらドラ! 本須和秀樹(ちょびっツ

※それぞれ公式サイトのキャラクタ紹介より引用。こうやって並べてみると、そんなに似てないな(笑)。
 高須竜児は制服を着崩しているわけでもなく、アクセサリをジャラジャラさせているわけでもなく、奇天烈な髪型をしているわけでもありません。ただ1点、吊り上った目(しかし、そこまでひどいわけではない)を除けば、きわめて普通の学生です。だけど、作中では凄く恐れられているようです。第1話の中では、道端で肩がぶつかっただけの学生からは財布を自主的に渡されてしまうし、「あれは人殺しの目よ」とまで遠巻きに言われ、ニヤリと笑えばモーセ十戒よろしく人の海が割れてしまう。廊下を歩けばコソコソ噂され、担任の先生は恐れのあまりどもって挙動不審。理想(キャラ設定)と現実(映像)のギャップを目の当たりにした視聴者は「おそらくそういう設定なんだろう」と、自分を無理矢理にでも納得させようとするわけです。
 このような「無条件で他人から恐れられる外見」といったキャラクタの設定は、そう珍しいものではありません。気になるのは、そのような高須竜児が原作の文章ではどのように表現されていたのか、という点です。このようなポイントに限定すれば、本作はあからさまに映像よりも文章に優位性がある世界で、それこそ『浦島太郎』ではありませんが「絵には描けない」なんて表現でいくらでも書けてしまいます。さあさ、どんどん『とらドラ!』からは論が外れていきますよ。

記号的リアリティと清涼院流水

 そのようなキャラクタ設定、あるいはそれに支えられるリアリティを東浩紀は「記号的リアリティ」と呼びました。これは2000年代初頭にミステリ(特に新本格)の領域において強く意識されてきた概念で、例えば笠井潔ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』などでも言及されてています*3。その大きな契機となったのが清涼院流水という作家の存在でした*4清涼院流水作品のキャラクタたちは、もはやリアリティを放棄した記号に支えられたキャラクタで溢れています。例えば九十九十九(つくもじゅうく)という探偵は、「究極の美貌」を持つ長髪の男性で、その瞳を直視すると美しさのあまり失神してしまうため、警察庁からサングラスの着用を義務付けられている、というキャラクタです。いかがでしょうか。
 しかし、そこにはただ文字という記号が並んでいるだけです。現実世界に即したリアリティの補強は、ほとんど放棄されています。それは「究極」という言葉で留まっていて、そこから先は読者の側にゆだねられているという構造になっています。つまりは文字=記号による設定のみで支えられたリアリティであり、本質的に映像化には向いていないということになります(笑)。
 本作の高須竜児の設定もまた、似たような記号的リアリティによって支えられています。しかし、それは文字通り文字の中でしか存在し得ないリアリティです。そのまま現実にもってきたところで、強度を失ったその設定は色褪せ、視聴者を白けさせるだけです。現実世界では、ただ目つきが悪いだけの男子は、無視されることはあろうとも、本作のような怖がられ方をすることはないでしょう。だからって、それは本作がフィクションだから、というメタな議論に逃げるのは得策ではありません。では、映像化する際に、どのようにして失われたリアリティを補完していけば良いのでしょうか。

記号的リアリティを映像で書き換える

 そのような記号的リアリティを映像化しようとするとき、そこにはテキストメディアから非テキストメディアへの変換が必要になります。各メディアにはそれぞれの長短があるので、多少の改変を行い、違和感を与えずにリアリティを補強して欲しいのです。例えば、ベタな方法としてはキャラクタのデフォルメや効果音、背景などで補強するというのが考えられるでしょう。その点で本作は、もともとシンプルな線で描かれていることもあり、今提示したようなテクニック(いわゆるアニメ的なテクニック)はほとんど使われていません。これはドラマをあくまでも現実空間の中で展開させていく(学園ものですしね)という意図のもとと考えられますので、絶対にこうしろというものではありません。
 他には、もっと現実に近づけた設定として、マイルドに表現するというのも考えられるでしょう。何もしていないのに怖がられるというのも、例えばちょっとしたことで他人に声をかけるけど、相手は引きつり笑いで逃げてしまう、みたいな違和感を持たせない程度の別の現象に変換することが可能だと思います。そのように、何らかの処置をして、違和感を抱かせないような工夫をして欲しいと思っているのです、自分は
 このようなことは、テキストメディアから非テキストメディアへの変換のみならず、あらゆるメディア変換の場で重要だと思っています。近年多い原作ものの映画化などですごくこのことが気になります。メディアが変わったのに、そのまま安易に原作の表現を持ってくるのは、まったくもって意味不明です。原作ものっていうのは、原作のままやれば良いってものではありません。原作を無視しろ、とは思いませんが、変更すべきところは変更し、残すべきところは残すべきだと思います。そういえば遅ればせながら今月頭に劇場版『デトロイト・メタル・シティ』を観てきたのですが、あれは良い実写化だったと思います。過去のエントリ「アニメ『ストライクウィッチーズ』の魅力を語る 主題の魅力編」と合わせて考えると、その物語的魅力が分かります。これはリアリティを物語で補強した例で、だからこそ突飛で非リアリスティックなキャラクタだらけでありながら、しっかりと1本の映画として楽しむことができたのだと思います。
 ただ、まんが⇒アニメ、実写のような非テキスト⇒非テキストの変換に比較して、小説⇒アニメ、実写のようなテキスト⇒非テキストの変換は前述したような「記号の壁」という大きな問題があります。特にライトノベルのような記号的リアリティに大きく依存している(と言われている)分野では顕著だと考えられます。その点を克服できないと、強度を失った空虚なドラマに堕するのは当然の帰結でしょう。メディアによって表現の言語は異なる。アニメにはアニメのリアリズムの確立方法があるはずなので、視聴者がスッと醒めて現実に戻ってしまうような穴は出来る限り埋めて欲しいと思うものです。というようなことを考えながら、一視聴者の秋の夜長は更けていくのであります。

*1:この名前についてはなかなか面白いので、興味があったら調べると良いと思います。簡単に紹介しておくと、『恐竜惑星』のヒロインはただの名前だけで苗字のない「萌」らしいです。伝聞の過程で、どこかで作家の鷺沢萠(めぐむ)と混同したとか。この注釈は萌えの語源の歴史を参考にしました。

*2:……と書くときはたいてい大した因果関係がないわけです。あんまりグダグダ書いているとなかなか本題に入れないので、さっさと行きます。

*3:大塚英志もまた「まんが・アニメ的リアリズム」という似たような概念を提示していますが、それはまた別のお話。本エントリでは「記号」に焦点を絞りたいと思います。

*4:清涼院流水に対する大塚英志東浩紀の評価は講談社文庫版『コズミック/ジョーカー』の巻末解説で読めます。また東浩紀の同文章は、『ゲーム的リアリズムの誕生』にも採録されていますし、「不純さに憑かれたミステリ」としてWEB上に公開されています。