「ゆのパンツ」から考える4コマまんがのアニメ化『ひだまりスケッチ×365』

 さあ、ブラウン管の中におけるパンツの話をしましょう。とは言っても、別に自分は2次元パンツ評論家ではありません、と一応釘をさしておきます。カンカン
 さて8、9月は色々と『ストライクウィッチーズ』絡みでパンツ問題について書き散らかしておりました。ありがたくも「パンツ論壇」などと呼ばれ、はてなを中心に夏らしい熱い議論が展開されていました。その過程の中で、恐れ多くも当はてダを仮想敵にご指名いただいた(笑)興味深い論がありました。

 この論自体は大変面白く読ませていただいたのですが、自分は該当シーンからまた別のことを夢想していました。ということで、そろそろほとぼりもさめただろうと、『ひだまりスケッチ×365』第11話「パンツの怪」における「ゆのパンツ問題」から感じたことを記してみたいと思います。
 なお本エントリは「新・アニメ・批評」に対する直接的な反論というわけではありません。あくまでも、同じ対象を見ていても、観察者によって感じることはこんなにも異なるんだなあ、と思っていただければ幸いです。また自分の一貫した考えとして、批評や評論あるいは感想というものは対象に仮託して自己を主張するものだと捉えています。その点、留意いただけると幸いです。

アニメ『ひだまりスケッチ』という作品の原作至上主義

 『ひだまりスケッチ×365』には原作至上主義とも思われる側面があります。それは原作者である蒼樹うめをアニメーション化プロジェクトの中心においていることからも分かりますし、一足先に『ひだまりスケッチ×365』OPを見ました+ひだまりMADとの関連性で指摘したような原作回帰傾向からも分かると思います。しばしば「原作クラッシャー」などと揶揄されることも少なくない新房昭之+シャフト作品ですが、少なくとも本作においては、原作は原作としてかなり尊重しているのが伺えます。もちろん、そこにオリジナリティ溢れるノイズを混入させてくるあたりが、さすが新房監督という感じなのですが。
 このアニメを見ていて強く感じるのが、原作を表現のレベルで限りなく「再現」しようとしているとも思える点です。全てのコマが同じ大きさに決まっているという4コマまんがの特性もあるのでしょうが、本作品はセリフ、擬音といったテキスト部分から、画面レイアウトといったイメージ部分にいたるまで、原作のそれを忠実に再現しようとしているようにも見えます。さらにベースの部分においては、まんが特有のスクリーントーンのドット表現なども強く意識しているように思われます。ここで重要なのは、『ひだまりスケッチ』の原作が4コマまんがである点です。

「にゃ〜ん」カットの観察

 当エントリで俎上にあげるのは、第11話「パンツの怪」における通称「にゃ〜ん」カット命名自分)です。このカットはオープニング映像のサビ前4連続カットでもサンプリングされているように、作品におけるインパクトのある重要な(?)カットのひとつだと考えられます。
 まず、このカットがどのような流れの中で出てきたのか、改めて見ていきます。「新・アニメ・批評」さんには怒られるのを承知で使用しますが、ざっと雰囲気を思い出していただくためにキャプチャ画像でご覧ください*1


BS-i版『ひだまりスケッチ×365』第11話より。最下段中央が「にゃ〜ん」カット

 このシーンなのですが、完全に対応する原作が存在します。原作第3巻66ページ「いつもじゃないのに」です。ちなみに次回予告で使われた1本でもあります。そしてアニメもまた、原作を完全に再現しようかというように忠実な描写で対応してきています。アニメの該当シーンは上の9カット+1カット(アイキャッチ)で構成されているのですが、そのうち4,6,8,9カットはレイアウトや表情、背景表現に至るまで、原作を限りなく踏襲しています。

 ね、塗り絵みたいな忠実度でしょ。ていうか、改めて見て、凄い再現度だな。

「にゃ〜ん」カットだけを分断して良いのか

 上でカット単位のキャプチャ画像で示したのには、実は大きな意味があります。セリフもなく、キャラクタの動作も分からない複数の画像をみていても、「にゃ〜ん」カット(アニメ8カット目、原作の3コマ目)が何を示しているのか分からないのではないでしょうか?
 このシーンに関して、「新・アニメ・批評」さんは次のようにまとめています。

  • ひだまりスケッチ×365』第11話で、多くの人は「にゃ〜ん」カットを「ゆののパンツ」だと錯覚した
  • しかし、あれは「ゆののパンツ」のようには見えない
  • あれは「背景画のようなフラッシュショット」あるいは「想像的・主観的・心理的なショット」である
  • むしろ、「ゆののパンツ」を隠すための「ヴェール」や「カーテン」として機能しているように見える
  • これはパンツを表現しながらもパンツを直接的に描写していない、一種のアニメーション技法である

 カット単位で分断してしまえば、「にゃ〜ん」カットが何を表現しているのか分かりません。オープニングのサビ前4連続カットでも、原作を知らない視聴者は第11話を見るまで、あのイメージショットみたいなものが何なのか分からなかったと思います。当たり前のことですが、「にゃ〜ん」カットは連続したフィルムの中の1カットであり、その文脈を無視してしまうと、「にゃ〜ん」カットが示しているものは永遠に理解できないでしょう。
 そういう意味で、「新・アニメ・批評」さんの「あれは「ゆののパンツ」のようには見えない」というのは、アニメを単体で素直に見た場合の当然の感想だと思います。さらに、このカットは直接のパンツではないが、パンツを表すイメージショットだと考えています。スカートのホックを外す⇒スカートが足下まで下がる⇒「にゃ〜ん」⇒落ち込むゆのに「ごめん」という文脈に沿って考えれば、「にゃ〜ん」カットが「ゆののパンツ」を何らかの形で示しているのは理解できるでしょう。
 ただ、「にゃ〜ん」カットが「ゆののパンツ」のアップなのか、それともパンツの直接描写を忌避するためのテクニックとして用いられたイメージショットなのかには、自分としては本質的な違いはないと考えています(制作者から見ると異なった思想で作られていますが、視聴者たる自分にとっては)。それはブラウン管の中のパンツとシュレディンガーの猫『ストライクウィッチーズ』でも主張していることなのですが、実写ではなく絵に描いた絵(!)である以上、この思想の違いを結果から判別することはできないからです。

4コマまんがのアニメ化における注意点:サブタイトル

 では何故アニメ版において、「にゃ〜ん」カット=「ゆののパンツ」自体という図式が容易に成り立たないのでしょうか。それは殆ど原作を完全再現し拡張したと思われるアニメ版において、原作の重要な要素が抜け落ちているからです。それは4コマまんがの5コマ目ともいえるサブタイトル(小見出し)の存在です。
 該当シーンのサブタイトルは「いつもじゃないのに」。最後のカットにおけるゆのの内なる声です。これが欠けても一応の筋道は通りますが、オチが完全にはオチきらないという結果になってしまいます。アニメ版における「にゃ〜ん」カット=「ゆののパンツ」自体が即発的に成立しない背景には、このようにサブタイトルが果たしていた内容がアニメ版に欠けているからだと考えられます。セリフも完全に原作どおり、カット割りも原作に忠実に拡張、それでもサブタイトルひとつ欠けただけで印象がガラリと変わってしまうのは、がちがちの制限の中で記述された4コマまんがをアニメ化する難しさと捉えられるかもしれません。
 4コマまんがにおけるサブタイトルには、それ自体がオチになっているものもあります。本編の4コマだけではただのシュールな光景なのが、サブタイトルで構造的強度を獲得するというのも少なくありません。本シーンでは、意味が伝わらないほどではないにしろ、その説得力が失われています
 逆にサブタイトルをうまく取り込んで成功しているな、と感じたのが第6話Bパート「11月11日 ヒロえもん」のワンシーン。ゆのの描いた絵を評価する吉野屋先生。原作第3巻44ページ「私より先に」に対応します。

 相変わらずセリフは基本的に同じなのですが、最後のカットに吉野屋先生の妄想するゆのの裸体がシャフトお馴染みのマルセル・デュシャンの回転の中に描写されます。そして吉野屋先生は原作サブタイトルに由来する「私よりも先に!」(元の「私より先に」とちょっと違うのですが)と発言するのです。このシーンを見た時、原作のコマが頭の中に残っていた自分は「ナイス・アドリブ!松来さん!」などと思ったのですが、よくよく考え直すとサブタイトルを本編に含ませていたのです。そこで原作がうっすらと匂わせていた性的な要素を画像とセリフではっきりと可視化しているのです。それが良いのか悪いのかは分かりませんが、原作のみならずその先の読者の頭の中で展開される風景まで込みでアニメ化するのは流石だと思いました。繰り返しますが善悪は分かりませんが、このことで獲得できた強度が確実にあると思います。このように4コマまんがのアニメ化において、サブタイトルは留意すべき重要なポイントだと考えています。

最後におまけ

 初めてこの「にゃ〜ん」カットについて当はてダで触れた時(ブラウン管の中のパンツとシュレディンガーの猫『ストライクウィッチーズ』の最下段)、次のように書きました。

ここまで拡大されれば、パンツはもはやパンツでないのです。

 これはとても大事な視点だと自分では考えていて、「にゃ〜ん」カットがイメージショットであれパンツ自体であれ、ここまで拡大すると、もはやどっちでも良くなるのです。それはざらついた肌のような顕微鏡写真だけを見ながら、これが人間の肌なのかはたまた象の肌なのか考えるくらいに無意味だと思います。
 そのような蒼樹うめの想像力が素晴らしいと自分は思っていて、それは上で対照例にあげた第6話Bパート「11月11日 ヒロえもん」の元ネタでありながらアニメ化されなかった部分である第3巻42ページ「定番」からもにじみ出ています。スケッチの対象物の下に敷かれているストライプの布を見て「おにーちゃんのトランクス」を想像してしまう宮子は、「ゆのパンツ」な視聴者・読者の思考と重なります。さすがうめてんてーだぜっ!(「うめてんてー」って初めて書いたけど、ちょっと恥ずかしいのな……)