ニコニコ生放送の新仕様から考える理想/現実のギャップの埋め方

 あのニコニコ動画が誇るリアルタイム動画配信サービス「ニコニコ生放送」といえば、本日2008年11月20日も「IKZO降臨祭」なるイベント(?)が行われていたようです。2007年春〜夏はニコニコ動画に心も体も毒されていたnoir_kこと自分ですが、うまいこと時の流れとともにデトックスに成功し、今ははてなに心も体も毒されているというわけです(笑)。結局何も変わっていないような気もしますが、へへへ。でIKZOって何だろう、と検索してみれば、なんと、吉幾三のことのようですね!……すごいなあ、吉幾三。こんなことになっているとは知らなかったです。
 とまあ、必要以上に非ニコニコ動画ユーザを気取ってみましたが、まあそこまで見てないわけでもないです(笑)。ただ、以前に比べると直接ニコニコ動画上をうろうろしたりすることが少なくなり、他サイトのリンクを経由して訪れることが多くなったのは事実だったりします。単純に、テレビ放送されていたアニメの違法アップ動画がなくなったからかも……と、少々危険なことを感じたりもしていますが(冗談ですよっ!)。ただJASRAC包括契約したのはとても偉いと思っていて、演奏動画でもアップしようかと思ったくらいです。……って、これはもう半年以上前のことですが(笑)。相も変わらず、時勢に乗るのが下手糞なのです。サーセンニコニコ動画風に)。ちなみに好きなジャンルは料理動画です。あとニコニコ国際映画祭も好きです。
 そんなニコニコ生放送ですが、今月の初旬に仕様が変更されたようです(ニコニコニュース)。おそらくアニメ『Candy boy』先行上映会の前後だと思われます。自分としてはそんなことより、同日のニコニコ動画の評論ブーム?(ニコニコニュース)という「ゼロアカ道場」紹介記事で当サイトへのリンクが貼られ、どうなることかとビクビクしていました。まあ、実際は大してアクセスも増えなかったのですが(笑)。期待しすぎて損したぜ。
 その仕様変更が喧々囂々+侃々諤々=喧々諤々といった感じだったようです。例えばニコニコ生放送の新仕様が酷すぎる(未来私考)などからうかがえます。何がそんなに問題なのか、とまずは変更前後の仕様を要約してみます。

  • 変更前
    • 有料会員:予定時刻の10分前から優先的に視聴できる。
    • 無料会員:予定時刻かっきりから視聴できる。
  • 変更後
    • 有料会員:常に優先され、満員時でもすでに視聴中の一般会員をおしのけて視聴できる。
    • 無料会員:視聴可能だが、満員時にはプレミアム会員が優先され、視聴中でもはじき出される可能性がある。

※有料会員=プレミアム会員、無料会員=一般会員

 個人的には有料v.s.無料ということは問題だとは思っていなくて(何らかの形で差別化が図られるのは、当然でしょう)、問題は無料会員の扱い方に集約していると考えています。つまり、無料会員にとっては、何もしていないのに、いきなり不便になるわけです。端的に、これは良くないと思います。今日はそんな話をちらほらと。

美人を表現するために、不美人を登場させるということ

 大抵の物事は相対的な差異によって判断されるので、例えば美人を表現したかったら、その周囲に「引き立て役」となる不美人を配置すれば良いはずです。これはなかなか効果的と考えられ、最近の事例では、アニメ『かんなぎ』の第3話「スクールの女神」で唐突に森三中のパロディ(?)みたいな3人組が出てきたのは、ナギの美しさを際立たせるための演出と捉えることができるかもしれません。

※アニメ『かんなぎ』第3話より。この指摘はネット上のどこか(失念しました)で見たものです。
 いきなり話が飛んだようですが、しっかり繋がっている(はず)なのでご安心ください。この事例を先のニコニコ動画の件に重ね合わせることができます。すなわち、プレミアム会員の優位性を「偽装」するために、一般会員のサービスの質を低下させることとなります。いかがでしょうか。
 このようなことは今回のニコニコ生放送仕様変更のみならず、ニコニコ動画にプレミアム会員制度が登場したときから指摘されていることと思われます。上位の優位性を出すために、下位の質を意図的に下げるのは、本末転倒だと言わざるを得ません。本来は上位により優れたサービスを提供するのが筋というもので、下位を維持しなければ(できなければ)、全体的な質の低下が起こったのと同じです。

需要と供給のバランスにおいて、どちらを優先するか

 これを需要と供給のバランスとして捉えなおすこともできます。需要と供給のバランスが崩れている(特に「需要<供給」)ときに、需要を供給に追従させるのか、それとも供給を需要に追従させるのかの違いです。需要に供給を追従させて、供給を低下させれば、確かに損失は小さくなります。ただし、その市場価値は低下し、負のスパイラルとともに需要がより低下していくのが想像できます。そうなったら、同様に供給も低下せざるをえなくなり、最終的には悲しい現実を迎えることになるでしょう。
 逆に供給を需要に追従させる、すなわち供給量を削るのではなく、その供給量に見合うだけの需要を生む場合はどうでしょうか。具体的に「需要を増やす」にはどうすれば良いのかは難しい問題ですし、難易度も無茶苦茶高いのですが(笑)。その時には、先程とは逆に、正のスパイラルとともに市場価値を増していくことでしょう。……まあ、こんな単純な話ではないのは、重々承知していますが。

現実と理想のギャップをどう埋めるか

 理想と現実というものは、往々にして理想>現実という不等式が成立します。では、このギャップをいかにして人は乗り越えていけば良いのでしょうか。ここにも上と同じ議論が適用できます。
 高すぎる理想を、ぎりぎり可能な現実まで引き下げるのでしょうか?それとも、努力によって現実を理想のレヴェルまで持ち上げるのでしょうか?
 世知辛い世間、辛い人生を少しでも心穏やかに過ごしていこうと思うなら、自分の中の理想ラインを下げるのは実効性の高い戦略だと思われます。ただ、上の需要/供給の例で取り上げたように、それで本当に良いのか疑問が残ります。もちろん、価値というものは主観的で相対的なものですから、このような消極的戦略でも十分かもしれません。それでも、そこにあるのは「偽装」された「まやかし」の満足・充実かもしれません。
 せっかくならば自分の意識を改革するだけではなく、現実の方を改革していきたいものです。だけど、そういう積極性って難しいよなあ、などと映画を見た後に急に冬めいてきた寒空の下で身を縮こませながら考えたりするわけです。ああ、本当に寒くなってきたなあ。あと、本はてダは季節ネタを言い訳に締めることが多いなあ、と自己反省。