國府田マリ子と田村ゆかりから考えるコナミレーベルの功罪

 以前のエントリ[id:noir_k:20080619:1213838915]の続きになります。前回の内容を簡単に振り返ると、梅雨ということで國府田マリ子『雨のちスペシャル』を思い出したnoir_kは、コナミレーベル*1において歌手活動を行っていた新旧2人の声優である國府田マリ子田村ゆかりの類似性を再認識しました。類似の要因はコナミレーベルの思想だったのかもしれませんし、元来2人が持っていた志向性かもしれません。前回のエントリでは、コナミ提供アニラジの変遷を辿ることで、あまりアーティストの手を広げなかったコナミレーベル自体の変遷が読み取れました。本エントリでは前回を発展させて、國府田マリ子田村ゆかりの比較考察を行うことで、コナミレーベルについて、そして2人の今後について今改めて考え直してみよう、というのを目的とします。
 まずは國府田マリ子田村ゆかりの簡単な紹介を。2人はともに声優を本職としています。大きな声優ブームの流れの中において、國府田マリ子は第3次声優ブームのトップの一人であり、田村ゆかりはそれに続く第4次声優ブーム*2のトップランナと言えるでしょう。第3次声優ブームとは『美少女戦士セーラームーン』から始まり『新世紀エヴァンゲリオン』で頂点を迎える流れであり、アイドル死の時代と呼ばれていた1990年代にアイドルブームから移行するように起こった流れでもあって、第1次アイドル声優ブームと換言することができるかもしれません。そこでは今まで完全な裏方に徹していた黒子である声優自体にスポットライトが当たるようになり、顔出しの活動であったり、大文字の名前での歌手活動を行ったりするようになりました。その流れを受け継ぐ形で第4次声優ブームが勃発し、そこにおいては歌手活動というものは必須になっているように感じられます。
 それでは國府田マリ子田村ゆかりの詳細なプロフィルを見ていきましょう。

略歴

  國府田マリ子 田村ゆかり
誕生日 1969年9月5日(38歳) 1976年2月27日(32歳)
声優活動 1991年〜 1997年〜
歌手活動 1994年〜 2001年(1997年)〜*3
ラジオ*4 1993年 1997年
個人Pラジオ*5 1993年 2002年
コナミラジオ*6 1993年 2003年

 ここで選択した軸は3つで、本職であるところの声優活動、そして現在焦点を当てている歌手活動、さらにラジオパーソナリティ活動です。この3つがアイドル声優としての活動には必要不可欠だと考えられます。まずはこの3つの観点から捉えていきたいと思います。
 國府田マリ子は、デビュー当時からすぐにラジオ番組のレギュラーを持つなど、そのパーソナリティ性が尊重されてきた印象があります。デビュー3年目にはすでに個人パーソナリティの番組を複数抱え、その中でもコナミのメディアミックス展開を焚きつける要因(?)となった『ツインビーPARADISE』(1993年)や、最終的に11年もの長寿番組となった『國府田マリ子のGM*7』(1993年)など後世にまで名高い番組があります。同時期にアニメでもブレイクを遂げ、『GS美神』(1993年)『ママレードボーイ』(1994年)『ダーティペアFLASH』(1994年)と休むまもなく続いていきます。さらに同時期に『ツインビーPARADISE』の流れを受けてコナミから歌手デビュー(1994年)*8しました。これらが複合的に起こっているあたり、それまでの数年間の努力が一気に花開いたといった感じでしょうか。歌手活動も順調に進み、1998年あたりに最盛期を迎えました。このときには並行して顔出し女優活動も行い深夜ドラマ『せつない TOKYO HEART BREAK*9』(1998年)なんてのもありました。また『Come on FUNKY Lips!』(1997年)では声優としては異例の深夜2時間生番組24局ネット!*10のパーソナリティをつとめ、強大すぎる人気を誇る裏番組*11を相手に奮戦していました。
 田村ゆかりは、デビュー前の養成所時代に初めてのラジオレギュラー出演を果たしています。『私たち、翔びます!』*12(1997年)はずばり田村ゆかりが当時通っていた日本ナレーション演技研究所が提供する番組であり、在籍生の中から選ばれてパーソナリティをつとめていたようです*13。デビュー後、すぐにポリドールから歌手としてのデビューを果たします。本職の声優としては、他の声優(含國府田マリ子)と同じように不遇の時代と言いますか、端役を中心とした細々とした活動を送っていたため*14、歌手活動の方が目立っているように感じていました。その活動内容はいわゆるアニソン歌手に近いものだったと思います。また、何だかんだ言ってもラジオを長く続けていて、『SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン』(1998年)での堀江由衣とのユニット「やまとなでしこ」(2000年)や、単独パーソナリティ年は当時新興メディアとして期待されていたもののコンテンツ不足に悩まされていたBSデジタルラジオ「BSQR489」での『田村ゆかりのミュージック・フェアリー』*15(2000年)などがあります。アニメでは2000年ごろから数多くの主役をつとめるようになり*16、『kanon』(2002年)ではヒロイン同士として國府田マリ子と競演したりもしています。コナミでの歌手活動を始めたのは2001年で、この頃にはすでに高い人気を擁していました*17
 2人の共通点は、デビュー数年でアニメレギュラー、ラジオレギュラーを掴んだといった点にあるでしょう。また二人ともラジオでの活動を初期から行っており、パーソナリティ性がアピールされていたように思われます。また國府田マリ子の方が短期間で一気に上り詰めた感があるのに対し、田村ゆかりの方がじんわりと上り詰めたように思われます。これは第3次声優ブームと第4次声優ブームが連続的に起こり、その遷移期において第3次の残り香が第4次の台頭を意図的でないにせよ妨げてきたことが背景にあると思われます。上が十分揃っていたので、田村ゆかりなどの世代はなかなか頭を出しにくい状況にあったのでしょう。歌手活動を始めた時期に関しては田村ゆかりの方が声優デビューから早いですが、國府田マリ子は歌手活動を行う声優の開拓者のひとりであり*18、その後の土壌に生きてきた田村ゆかりにおいては少し状況が異なりますので、そのまま比較することは難しいです。

音楽活動

 コナミでの歌手活動期間は、國府田マリ子は1994年〜1999年、田村ゆかりは2001年〜2006年であり、ともにその後はキングレコードに移籍しています。所属は2人ともVC制作部であり、アニメ・ゲームレーベルとして名高いスターチャイルドレーベル所属ではありません。ちなみにキングレコードVC制作部所属のアーティストは國府田マリ子田村ゆかり水樹奈々のみで、スターチャイルド所属とは少し意味合いが異なると考えられます。
 活動期間を見ると、コナミ國府田マリ子から田村ゆかりに乗り換えているかのように見えなくもありません*19。では2人のコナミ期の活動実績を紹介しましょう。

  國府田マリ子 田村ゆかり
活動期間 1994年〜1999年(6年) 2001年〜2006年(6年)
シングル 11枚 11枚
アルバム 6枚 5枚
ベスト盤 4枚 2枚

 こう見ると活動期間の一致*20、同数のシングル、1年1作ペースのアルバムと類似しているのが分かります。シングルに関しては、國府田マリ子の場合いわゆる8cmシングルであり、田村ゆかりは12cmマキシシングルになっています。そのため1枚あたりの収録曲数は國府田マリ子の場合2曲、田村ゆかりの場合3曲になっていて、曲数的には國府田マリ子22曲、田村ゆかり33曲と差があります。また音楽CDの売り上げ低調を受けて、シングルCDの持つ意義が変わりつつあった時期だったともいえるでしょう。
 また枚数では同等ですが、シングルCDのリリース時期を詳細に見るとその傾向が異なっているのが分かります。國府田マリ子の場合は次のように1996年から1998年の3年間に集中してリリースされているのが分かると思います。

販売時期 タイトル
1994 僕らのステキ
1995 みみかきをしていると
1996 私が天使だったらいいのに/まちぶせ
1996 夢はひとりみるものじゃない
1997 笑顔で愛してる
1997 風がとまらない
1997 雨のちスペシャ
1998 Looking For
1998 コバルト
1998 大切に思えるものが一緒ならいいよね
1999 待っていました

対する田村ゆかりの場合、次のように1年2枚のペースを保ってコンスタントにリリースされているのが分かります。

販売時期 タイトル
2001 summer melody
2002 Love parade
2002 Baby's Breath
2003 Lovely Magic
2003 眠れぬ夜につかまえて
2004 夢見月のアリス
2004 Little Wish 〜lyrical step〜
2005 恋せよ女の子
2005 Spiritual Garden
2006 童話迷宮
2006 Princess Rose

 このような傾向の違いが、前述したような「國府田マリ子の方が短期間で一気に上り詰めた感があるのに対し、田村ゆかりの方がじんわりと上り詰めた」という感覚と合致します。これは歌手活動に限定した話ではなく、アニメ出演などでも同じような感じがします。

コナミレーベルの功罪

 上述したコナミ時代の國府田マリ子田村ゆかりの2人に共通する特徴は、すなわちコナミレーベルの特徴と一致すると考えてよいでしょう。その特徴とはずばり、「楽曲の多彩さ」と「中心に位置する歌い手の圧倒的存在感」だと思います。普通、歌手という物は「歌手=楽曲」という等式の中にあり、むしろ楽曲(=作風)が歌手を規定する部分が少なからずあります。そのような傾向は音楽に限定した話ではなく、多くの創作物は直接目に触れる作品を主として、その背後に作者が透けるような構造になっています。しかし、コナミレーベルの場合、本来歌手ではなくそして声自体が主である声優の利を生かして、楽曲中心ではない音楽活動を展開してきました。シンガーソングライター的な「歌手=楽曲」を崩しているのです。そこにおいて楽曲は歌い手をドレスアップする衣装のようなもので、あたかもお色直しのように様々なバリエーションが展開されます。そこで必要とされるのは圧倒的な歌唱力ではなく、それなりの歌唱力と圧倒的な存在感です。
 例えば、國府田マリ子の楽曲の変遷を追うと、作曲は松原みき、ながつきまろん種ともこ松本タカヒロ、イズミカワソラ*21……と様々です。楽曲提供者の多くは自身がシンガーソングライターであるケースが多いです。またアレンジャー、プロデューサーも変化が激しく、西脇辰弥亀田誠治井上うに……がいます。初期のアルバムでは1枚の中で数多くの表情を見せていましたが、どちらかというと1枚ごとに違う表情が覗ける感じ*22だと思います。その多彩さはベストアルバムで真価が発揮され、たとえばコナミ時代の後期集大成とも言える『MY BEST FRIEND 2』では15曲の楽曲の中で、ながつきまろん、八野英史、西脇辰弥、南明男、松原みき井上うに種ともこ、P.YARROW・L.LOPTON、奥井雅美、TSUKASA、松浦有希と11人(11組)の作曲者が参加しています。
 これは田村ゆかりにも同様の傾向がありというかもっと顕著で*23、継続的な楽曲提供を行っているのは太田雅友小松一也橋本由香利 くらいで、それ以外は1,2曲の提供にとどまっています。だからこそ、田村ゆかりの楽曲は1曲ごとに田村ゆかりの新たな側面が見えるような構造になっているのです。國府田マリ子の時と同じようにベスト盤を例に挙げると、全9曲中で渡邉美佳、片岡嗣実大久保薫太田雅友小松一也橋本由香利marhyと7人が提供しています。ただ注意する必要があるのは、田村ゆかり國府田マリ子に比較するとアニメタイアップ楽曲であることが多いので、その場合は少し話が変わってきます。例えば橋本由香利なんかはキングレコードお抱えのアニソン作曲家といった雰囲気があります。楽曲提供者の傾向としては、どちらかというと職業作曲家寄り(歌手よりは演奏家系)だと思われます。
 國府田マリ子田村ゆかり、様々な相違はありますが、基本的な戦略としての「楽曲の多彩さ」と「中心に位置する歌い手の圧倒的存在感」は類似していると思われます。これは悪く言うならば、「カラオケ歌手」に過ぎないということです。シンガーソングライター的な「歌手=楽曲」の関係から言うならば、楽曲でメッセージを表現するのではなくて、楽曲を通して歌い手を表現しているのです。声優が歌手活動を行う場合、コナミの選択したこのような戦略は親和性が高く、歌い手の存在をずんずんと持ち上げていくことに成功していると思います。しかし、一方では楽曲頼りにならざるを得ない部分があります。これは同じような曲ばかりではすぐに飽きられてしまうということです。常に新しい楽曲、歌い手の新しい側面を追求していく必要があるというわけです。
 國府田マリ子は2000年以降、田村ゆかりは2007年以降、コナミを離れてキングレコードでの音楽活動を行っています。それが影響しているのかわかりませんが*24、ともに楽曲の幅が狭くなっていると感じています。國府田マリ子でいえば、キングレコード移籍後はイズミカワソラ井上うにの影響が強すぎると感じています。これは別にイズミカワソラがそれ以前の楽曲提供者に比較して優れていないという意味は一切なく*25、このような「カラオケ歌手」的な売り方をしてきた弊害として、同じような傾向が続くこと自体に問題があると思われるのです。田村ゆかりにしても、キング移籍後は以前以上に太田雅友の影響が強すぎるのではないかという危惧を持っています*26。この傾向はあまり良くない傾向だと、自分では考えています。
 声優活動の一環としての歌手活動を考える場合、コナミの生み出した「カラオケ歌手」的なやり方は素晴らしい方法だと思います。歌手活動を通して声優本人の魅力を引き出し続けるためには、多彩な楽曲の存在が不可欠です。多くの楽曲制作者を引き込むのはコナミだからできたことなのでしょうか?それは分かりませんが、あまり特定の制作者に依存しすぎることは、破滅へつながると思います。田村ゆかりが今後もトップアイドル声優であり続けるには、太田雅友ひとりに依存し過ぎない制作体制をキングレコードが選択する必要があると考えます。
 ……というわけで、最後は田村ゆかりの方向性について言及するという、良く分からない終わりとなってしまいました。稚拙な部分も少なくありませんが、ご静読ありがとうございました。

*1:ちなみに頻出するこの表現ですが、前回のエントリでも記したように、その名称は変化し続けています。長期間にわたる名称としては「コナミミュージックエンタテインメント」などというのがありますが、本エントリではこれらのコナミの持つ音楽レーベルを総称して「コナミレーベル」と呼んでいます。

*2:この区分けについては、個人的にはよく分かりません。というか、大局的には今なお第3次の中にいると考えていて、あまり明確でない遷移期を経て、気が付くと第4次になっていたという感じでしょうか。

*3:田村ゆかりはデビュー直後の1997年から1999年までに4枚のシングルと1枚のミニアルバムをポリドールから発売しています。しかし公式上ではキャラクター商品扱いになっています。ので、一応、併記しておきました。2001年のほうはコナミ的歌手活動に相当します。確かに1作目の『勇気をください』はキャラソン分類しても良いと思いますが、2作目の『輝きの季節』は完全に田村ゆかりのものです。この曲が使われていた『渋谷でチュッ!』は大変好きな番組でした。当時中学生でしたが、学校行事のスキー旅行の夜にも見ていた記憶があります。ちなみに4作目の『きっと言える』はOVAですが地上波放映もされた『青山剛昌短編集』のEDテーマとしても記憶に残っています。さらにちなみにですが、2作目以降のポリドール時代は全曲作詞:三枝翔、作曲:山口一久で作られています。この頃の歌手活動を端的に表すならば、声優活動の延長というよりは、アニソン歌手としての活動に近かったと感じています。本エントリではコナミレーベルに焦点を当てるため、とりあえず除外させていただきます。

*4:地上波のレギュラーラジオ。といっても、当時はまだネットラジオが殆どなかったので、地上波に限定する必要はないかもしれないです。日本最古のインターネットラジオ(特にアニラジ)を探す旅には今度出てみようと思います。

*5:個人でパーソナリティをつとめたレギュラー(単発でない)の地上波ラジオ番組。

*6:コナミが提供するラジオ番組。前回のエントリで示したもの。

*7:放送当時のタイトルは『ゲームミュージアム』。このエントリを書くために、1997年に刊行された番組本を引っ張り出してきたのですが、番組当初はゲームミュージックカウントダウンをちゃんとやっていたみたいです。当時は関東圏ではFM NACK5しかやってなくて、殆ど聞いていなかったのです。なぜならTOKYO FMの80.0MHzとNACK5の79.5MHzが近すぎて、うまく入らなかったのです。アナログダイアル時代の懐かしい記憶です。

*8:なんせ1stシングル『僕らのステキ』は『ツインビーPARADISE 2』のOP曲です。

*9:おそらく映画『Looking For』も含めた國府田マリ子の顔出し女優活動は迷走だと世間的には捉えられたと思いますが、個人的には『せつない』は成功作でした。大変面白いドラマでしたが、当時のビデオデッキの調子が悪く、なぜか白黒映像でしか残っていないのが残念です。このドラマのおかげで、渡辺いっけいの魅力に気が付きました。

*10:現在でのTBSラジオ系の『JUNK』、ニッポン放送系の『オールナイトニッポン』など。在京局をキーステーションにラジオネットワークで全国で放送されることが多い。例えば『JUNK』はJRN系列局で、『オールナイトニッポン』はNRN系列局で放送されることが多い。NRNは文化放送ニッポン放送がキーステーションをつとめるため、25:00以降は『オールナイトニッポン』がメインとして放送されている。そのため文化放送は深夜ワイドを作りにくい状況にあったのだが、『LIPS』では放送時間を深夜24:00〜26:00とすることで、前半の24:00〜25:00は全国で広く放送されていた。いわゆる飛び降りというやつです。

*11:TBSラジオ系『伊集院光のUP'S 深夜の馬鹿力』、ニッポン放送系『福山雅治オールナイトニッポン』。この両番組は大変な人気があり、現在においても『伊集院光深夜の馬鹿力』は飛びぬけていて、他局は実質戦いを挑んでいない状況になっている。なんて書いたら、ニッポン放送のひとに怒られてしまうなあ……。

*12:ごめんなさい。この番組については良く知らないです。後番組の『カーニバルだよ、ちはる組』ならぼんやりと記憶にあるのですが……。東海ラジオだから、許してください。

*13:田村ゆかりは高校卒業後、OLのかたわら代々木アニメーション学院に通い、その後上京し日本ナレーション演技研究所に通ったという経緯を持っています。日本ナレーション演技研究所アーツビジョンの付属養成所であり、無料新人育成オーディションに合格した特待生が優遇される状態にあったと言われています。ちなみに田村ゆかりの同期の特待生として堀江由衣がいます(ともに1995年在籍)。

*14:とは言うものの、1998年にはワンダフルアニメ『ふたり暮らし』で主役をつとめています。

*15:BSQRは今で言うBBQR文化放送ネットラジオ)での『どっとあい』や最近の地上波デジタルラジオ「超A&G」のような雰囲気が少しあって、コンテンツ不足を補う意味もあって、若手声優を起用した番組などが多く放送されていた。

*16:どちらかと言えば、ヒロイン声優でしょう。川澄綾子ほどではないですが。

*17:堀江由衣とのユニットやまとなでしこは、第4次声優ブームのツートップと言え、アイドル声優としての高い地位を獲得していました。ちなみにこのユニットの結成の場となった『SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン』も、悪く言えば「乗っ取る」ようになっていました。実際に2002年からはパーソナリティをふたりだけでつとめていました。

*18:たとえば林原めぐみの歌手デビューが1989年で、『アイドル防衛隊ハミングバード』が1993年である。

*19:ちなみに他のコナミ所属は金月真美(1995年〜1998年)、丹下桜(1997年〜2001年)てな感じです。ちなみに國府田マリ子田村ゆかりのみを取り上げるのはその歌手活動規模もありますが、あくまでも他の多くが声優活動の一環としての歌手活動であったりキャラクターソング中心であったりするのに対し、この2人は歌手単体でやっていけるような方向性を有しているように思われるからです。実際に國府田マリ子は歌手活動に大きく傾倒していた時期もありました。その点、本分を忘れないながらも精力的な歌手活動も行う田村ゆかりは凄いと思います。……なんか、こういう表現をすると、彼女らが自らの意思で活動しているようですが、もちろん様々な思惑が蠢いているのを忘れているわけではありません。

*20:この点に関しては以下で触れていませんので、注釈で失礼します。実はこの点だけ理解できないでいて、というのもコナミが手放した頃はまさに人気絶頂といった時期なのです。そこで手放す利点があるのか良く分かりません。単純にコナミ社内のプロジェクトが6年単位あるいは3年単位で進んでいるとか、キングレコードとの販売契約が似たような感じになっているだけかもしれません。それとも声優を歌わせるのは6年が限界みたいな説をコナミが編み出したのでしょうか?謎は深まるばかりです。

*21:イズミカワソラなどはキング移籍後ですが、流れで入れてしまいました。コナミレーベルの作り出した國府田マリ子の変遷という意味では、そう間違っている話ではないと思っています。

*22:楽曲制作者の変遷はトルネード状に進んでいくようなイメージで、時間経過とともに連続的に変化していったと言えるでしょう。盤を経るに、すこしずつ面子が変わっていくような感じです。

*23:前述しましたが、ポリドール時代はちょっと違い、山口一久の手による楽曲が殆どです。この場合、楽曲=歌い手の関係が出来上がってしまっています。

*24:コナミレーベル時代においても、実際の制作を行っていたのはキングだと聞いたことがあります。となると意思決定陣の変化が影響を与えたということだと思います。ですが、内情が分からない以上、保険をかけたこんな表現をさせていただきます。

*25:実際、『心の矢印』なんて名曲でしょ。

*26:まだキング移籍から数作しかリリースされていないので、まだ何ともいえない状況ですが、アルバム『十六夜の月、カナリアの恋。』を見てもそんな感じがします。考えすぎなのかな……。