エナメルを塗った爪に火をともす生活

 太田克史の功績のひとつは、佐藤友哉の発掘だったと思います。というのも佐藤友哉の第一作『フリッカー式』(講談社ノベルス)は、とにかくぶっ飛んでいて、尖がっていて、装飾過剰で、ちょっと間違えたら誤解されまくりそうな、そういう危険性をはらんだ小説であり、世に出るべくして出たタイプではないと思われるからです。喩えるならば、当時話題になりつつあったゴスロリ少女のような危うさを持っていると感じました。
 この本に出会った2001年、高校生なりにこの作品の魅力を考えたことがありました。というのも、この作品の良さははっきり言って他人に伝えにくく、また自分自身どこに惹かれているのかよく分からなかったからです。
 特徴的だったのが、全編にわたってちりばめられた「ネタ的」な要素です。さらにジャンル横断的であり、まっとうな(本格)ミステリを期待して読み進めた読者にそっぽを向かれてしまうのも理解に難くありません。なんせ敬虔な『メフィスト』読者からも軽い無視を受けたくらいです。だけど、この作品を始めに初期三部作(などという呼び名があるのか知りませんが)である『フリッカー式』『エナメルを塗った魂の比重』『水没ピアノ』を読んで感じたのは、妙なリアリティと作者への親近感でした。
 有名な言葉で「神は細部に宿る」というものがありますが、本作品の肝はそこにあるのではないかと思いました。佐藤友哉は1980年生まれで(ちなみに誕生日は森博嗣と同じ12月7日)、自分より3つほど年上なのですが、そこで繰り広げられるネタの数々は少々背伸びしている感じ(単純に早熟だったとも言えます)もあり、もう少し上の世代にマッチすると思われます。まさしく1972年生まれの太田克史のような世代のサブカル野郎にとっては大学生くらいの頃を髣髴とさせ、ジャストミートだったのだと思います。きっと英才教育型であられる声優の後藤麻衣さんなんかも楽しくジャストミートされたのではないかと思われます。
 そのような点もあって、『フリッカー式』は歪で不恰好だが、我武者羅でパワーに満ち溢れ、そして自意識過剰で、届くべき読者に確実に届く、そんな作品だったのだと思います。こんなことを書いていたら、久しぶりに読み直したくなってきた……。
 そういえば先日、場所の記憶みたいなことid:noir_k:20080521を書きましたが、『水没ピアノ』を読んだのは大学入試に失敗し、あと数日でやってくる4月からどうしようかと悩んでいた頃でした。高校の卒業式の後に、友達の家に大人数で押しかけ、日が経つにつれ1人、また1人と帰宅していく中、1週間近く滞在し続けたのを覚えています。友達のご家族の方には本当に申し訳なかったです。その帰り道のことでした、『水没ピアノ』を購入したのは。嗚呼。

フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人 (講談社ノベルス)

フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人 (講談社ノベルス)