太田克史の手の中

 飯野賢治というひとは中学生の自分にとって意味不明なカリスマであったのは間違いない。ゲームバブルと呼ばれる流れの中で当時20代にして時代の寵児であったのは間違いないし、その思想や作品も評価に値するものが多かった。惜しからむは、そこにエンタテイメント性や売り上げといったものがついていかなかったことだろう。また本人の強烈過ぎるキャラクタ性もまた、逆説的に批判の対象となりやすかったのも理解できる。当時を知らない人に向けて喩えるならば、早すぎたホリエモンみたいな感じである(ちょっと語弊があるか?)。
 時代からどのようにみられていようとも、その著書『ゲーム』(講談社)の存在は当時の自分にとって決して小さいものではなかった。明示されてはいないが、おそらくこの本は口述筆記によるものと思われ、そこには飯野賢治の半生とともにその思想が十分するぎるほど語られている。ただ胡散臭さが漂っているのも事実である。
 この本を作ったのが、当時講談社の若手編集者であった太田克史だった。太田克史は後に舞城王太郎佐藤友哉西尾維新を発掘し「ゼロ年代の波」などという恥ずかしいキャッチフレーズで持ち上げていくことで有名になった。おそらく今日本でもっとも有名な編集者のひとりであろう。このあたりの作家陣の著作にも大変世話になった。新本格の枠を拡張していったことには賛否両論あるだろうが、当時の若者だった自分にはしっかりと届いていたと思う。
 新本格ジャンルでメフィスト賞を中心とする小さなブーム(新本格第3の波)が起こっていた頃、ライトノベル界隈ではまた別のブームが起こっていたらしい。正確には新本格ブームを引き継ぐ形で、起こったのだと推定できる。「らしい」「推定」と書くのは、この流行に乗り遅れ、実際のところが良く分からないからである。
 当時は一読者として、一般向けエンタテイメント小説とライトノベルの垣根が低くなっているのは感じていた。例えばライトノベル出身である『屍鬼』(新潮社)の小野不由美が広く知られるようになったりし始めた時期だった。電撃文庫メディアワークス、現アスキー・メディアワークス)でも大人向けといっても遜色ないような作品が多数出版されていたらしく、その噂を聞くことは少なくなかった。
 ちょうど大学受験が重なったこともあって、新刊あさりから徐々に手を引きつつあった。その流れは大学に入学してからも変わらず、たまに『ダ・ヴィンチ』(メディアファクトリー)で大きな流れを感じる程度だった。
 そういえば、当時はライトノベルのことはヤングアダルトノベルと呼ばれていました。おそらく分類上の名称だと思います。図書館にはヤングアダルトコーナーという、一歩間違えたら大変な名称のコーナーにまとめられており、そこにはヤングアダルトノートというオフライン時代の産物があったりしました。