場所の記憶、場所と記憶

 昨日、機械で腹を振動させながら山田真哉『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』を読んでいると書いたが、これによって機械で腹を振動させるたびにこの本の内容が反芻されることだろう。腹が振動するたびに「完売しても上司から怒られることがあるんだったな……」などと思い出すわけである。
 このように記憶の強固な定着は、それを受容したときの場所や動作と結びつくと考えられる。街中でウォークマンを耳に歩いている習慣があるひとは、このことを実感することが多いだろう。
 例えば、飯田橋のセントラルプラザ「RAMLA」2階の書店「芳進堂」に行く度に、斎藤千和の恩師の話、そして公立小学校教師の子供は親の学級に配属されることはない、ということを思い出す。これは以前、ネットラジオぱにらじだっしゅ!』の当該回を聞きながら歩いていたことに起因する。
 こんな感じで、東京の至るところに何らかの記憶が埋まっている。場所と記憶の相関を地図に起こしたりすれば、さぞかし楽しいことだろうと推定できる。記憶は脳内でのマッピングだけでなく、物理的なマッピングもされているのだな、と感じるわけだ。
 これは音楽でも同じようなことが言えて、例えばショスタコーヴィチ『映画音楽「ハムレット組曲』なんかは真夏のベッドの中と結びついているし、秋葉原駅近くの神田ふれあい橋を渡るときにはYMO『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を思い出す。
 そういえば飯野賢治はその著書『ゲーム』(講談社)の冒頭で次のように書いている。

僕が小学五年生のころ。
昼すぎの秋葉原
(中略)
僕は、新しいYMOのアルバムを、発売されたばかりのウォークマンで聴こうと
ヘッドフォンを耳にする。
……。
すると、街の風景が変わっていく。
ものすごい色、ものすごい力。
そこで僕はなにかを体験したんだ。

 ふとそんなことを思い出した。なにか懐かしい感じがする。中学生の頃に戻ったかのような気分だ。

ゲーム―Super 27years Life

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