メタフィクショナルな言動とメディアミックス『かんなぎ』

 さて、以前から期待している!と言いながらも、当はてダでほとんど触れてこなかった『かんなぎ』ですが、ついに触れることとなりました。拍手!……というのも、遅ればせながら原作まんが第1巻を読みました。第1巻はすでにアニメで放映済みの内容なのですが(ちなみにアニメ第5話Aパートまでの内容)、単体でも面白いものだと感じましたし、アニメ版とあわせてもなかなか興味深いと思います。そんな中、ちょっとしたことに気が付きました。それは、作中における登場人物のメタフィクショナルな言動についてです。

登場人物によるメタフィクショナルな言動

 まずは、次にあげる2つのシーンにおけるアニメおよび原作まんがでのセリフを紹介します。

ナギの嘘(二重人格であること)がばれるシーン

 ナギと一緒に住んでいるのを幼馴染のつぐみに知られたしまった御厨。ナギは二重人格を装って危機を回避するが、御厨もまたナギの二重人格が真実だと信じてしまう。直後、会話の中ですぐにボロを出してしまうナギ。そこで一言。

  • アニメ第2話「玉音アタック!」より
    • ナギ「し、しもうた…。Aパート終わらぬうちにバラしてしもうた」
  • まんが第2話「玉音を聴いた」第1巻60ページ4コマ目より
    • ナギ「し、しもうた…/たった2P(ページ)でバラしてしもうた」
秋葉がうらやましい状況の御厨を殴るシーン

 御厨に内緒で学校に現れたナギ。その噂を聞いた秋葉は美少女に囲まれた生活を送る(?)御厨を思わず殴ってしまう。「すまん/情動に任せたら手が出てしまった!/なんという奴だお前は!/美少女の幼なじみだけでは飽きたらず」に続く一言。

  • アニメ第3話「スクールの女神」より
    • 秋葉「僕は今確信したよ……。この世界が漫画なら、主人公は、お前だ…」
  • まんが第4話「スクールデイズ」第1巻118ページ4コマ目より
    • 秋葉「僕は今確信したよ……/この世界が漫画であるとしたら主人公はお前だ…」

 いかがでしょうか。シーンの概要はお分かりになりましたか。この2つのセリフ、そして原作まんがとアニメ版の差異について考えたいと思います。

メタフィクショナルな言動におけるメディアによる差異

 以上を「メタフィクショナルな言動」と呼びましたが、ここでは「世界がフィクションであることを認識あるいは示唆するような言動」という意味で用いています。一種の「異化効果」というやつだと思いますが、現代においてはある種のギャグテクニックとして様々なメディアにおいて用いられているように見受けられます。
 このシーンにおけるセリフですが、一見して明らかなように、原作まんがとアニメ版では少々セリフが異なります。まずはその差異をおさらいしましょう。ちなみにアニメ化における脚本化は、ともに倉田英之が務めています。

シーン 原作まんが アニメ
1 たった2P(ページ) Aパート終わらぬうち
2 この世界が漫画であるとしたら この世界が漫画なら

 シーン1(玉音を聴いた)では、原作まんがでの「たった2P(ページ)で」という表現がしっかりと「アニメ化」されて「Aパート終わらぬうち」に変化しています。これは正しい「アニメ化」であり、もとのままの表現では一切意味が通じなくなってしまうシーンです。
 一方、シーン2(スクールデイズ)では、原作まんがでの「この世界が漫画であるとしたら」という表現は、アニメにおいてもほぼ同内容の「この世界が漫画なら」として変化していません。シーン1のような「アニメ化」が正しいとすれば、このシーンは「この世界がアニメであるとしたら」と変換されるべきでしょう。しかし、実際にはそのような変更はなされていません。
 では、このセリフはアニメ化に際してどのように処理されるべきなのでしょうか。

同一メディア内だからこそ、意味がある

 結論から先に申しますと、自分としては「この世界がアニメであるとしたら」に変更するべきだした方が良いと考えています。それは同一メディア内での表現にしなくては、純粋な意味でのメタフィクション性が失われてしまうと考えるからです。
 たしかに原作のままの「この世界が漫画であるとしたら」のままでも十分意味は通じます。しかし、アニメの世界でそのような言葉を言わせても、それはただの比喩に過ぎません。
 現実世界でハーレム状態にあるひとに向かって「この世界が漫画であるとしたら、主人公はお前だ」と言うのも「この世界がアニメであるとしたら、主人公はお前だ」と言うのも、それはともにただの比喩に過ぎません。しかし、まんがやアニメの世界の中でそのような言葉が発せられるのは、それを鑑賞している読者・視聴者にとって全く異なる意味を与えてくれるのです。それが「メタフィクション」というものだと思います。
 メディアを超えてコンテンツを作る際に、このような視点を失ってはいけないと思います。という、最近の映像化によって失われる記号的リアリティ『とらドラ!』「ゆのパンツ」から考える4コマまんがのアニメ化『ひだまりスケッチ×365』のようなアニメ化あら探しみたいなメディアミックスの弱点を突くだけの結論になってしまいました(笑)。なんか、いちゃもん付けたいわけではないんですよ!本当と書いてマジで!……もちろん、今回の『かんなぎ』に限らず、意図的に原作の表現を残す可能性もあります。ただ、個人的にはこのように考えているという意思表示です。無批判的に原作を「忠実に」アニメ化したんじゃないかと疑いたくもなりますよー。
 最後に。このエントリを書き上げて1時間もしないうちに、ヤマカンこと山本寛監督は前人未踏ならぬ「前ヤマカン未到」の監督第5話へ踏み出すわけです。まずはそれに祝福を。そして完走を「祈念」いたします。kannagi☆だけにね!(微妙な駄洒落だ……)

追記:アニメ第6話におけるメタフィクショナルな言動

 部活動の最中に突然、美術部部長(木村貴子)が「メイド喫茶に行こうと思うのよ」と言い出す。それに対する副部長大河内紫乃の反応(ボケ)と部長からの応答(ツッコミ)。

  • アニメ第6話「ナギたんのドキドキクレイジー」より
    • 副部長「担当のタナベさんにお願いすれば行けるかもしれませんわね」
    • 部長「そういう楽屋オチはコメンタリーでやって
  • まんが第11話「あの娘はクレイジー」第2巻97ページ3コマ目より
    • 副部長「仏さんじょ先生にお願いすれば行けるかもしれませんわね」
    • 部長「そういう楽屋オチ的なギャグはお呼びでないわ

 エンディングクレジットを見ると、タナベさん=田辺亮(「月刊Comic REX」編集部、企画協力としてクレジットされている)と分かるけれど、誰だよ!ちなみに仏さんじょ先生とは、『かんなぎ』が連載されている「Comic REX」で『ろりぽ∞』を連載中のまんが家さんです。ま、個人的には誰だよ!って感じですが、単行本派でなく連載派のひとにとっては、良いチョイスではないかと思います。
 ただ個人的な感想としては「担当のタナベさん」の知名度があまりにも低いのではないかと思ってしまいます。だからこその「楽屋オチ」なのですが、こういうフックはベタにやってしまっても良いのでは。本作におけるメタレベル(=現実)の有名人は、ずばり監督である山本寛ことヤマカンと、シリーズ構成・脚本の倉田英之、そして原作者である武梨えりといった面子でしょう。この3人はアニメ第5話「発現!しょくたくまじんを愛せよ」でもネタとして取り上げられている3人でもあります。彼/彼女らが本当にメイド喫茶に詳しいかは知りませんが、ここではそのことは絶対ではありません。知名度的にいえば、ここは「監督のヤマカンにお願いすれば……」とかでも良かったのではないかと思っています。個人的意見ですが(アニメ制作の最高責任者=神でもあるわけで、メタフィクションとしての面白さもありますし)。
 また、楽屋オチ的なギャグはお呼びでないわ⇒コメンタリーでやって、というのはとても良いアニメ化だと思います。はい。ていうか、全体的に良かったですね。第6話。

おまけ『図書館戦争』アニメ化はなぜ失敗したか

 いきなり失礼な小見出しで申し訳ありません(笑)。失敗したかどうかは、どの基準で見るかにもよりますが、あくまでも個人的には失敗と感じているだけです。その理由はいろいろあると思うのですが、本質的で大きな理由が原作自体にあると思っています。端的に言うと、それが本エントリで指摘しているメタフィクション性であり、『図書館戦争』という小説は本の中で本を守るために戦うというメタフィクション性というか二重構造が大きな意味を持っていると考えています。ですので、本質的にアニメ化に向いていないのではないかと思うのですよ。あ、このセクションは一視聴者の戯言ですので、さらっと聞き流してくれると嬉しいです。ぺこり。