「東浩紀のゼロアカ道場」第4回関門同人誌まとめ

結果速報

順位 ユニット名 東点 太田点 販売部数 完売時刻 合計点
1 project1980 200 70 500(+78) 14:42(3時間42分) 848
2 最終批評神話 180 55 500(+112) 14:08(3時間8分) 847
3 形而上学女郎館 70 65 500(+21) 15:39(4時間39分) 656
4 BL・やおい文学研究所 50 40 500(+54) 15:06(4時間6分) 644
4 フランス乞食の道場破り 100 30 500(+14) 15:46(4時間46分) 644
6 文芸空間 70 20 457 - 547
7 筑波批評社 80 40 421 - 541
8 Xamoschi 50 0 473 - 523

※特別ルールで、完売の場合、完売時刻から販売終了時刻(16時)までの時間を10分=10点で追加ボーナス。データは2ch東スレッドより(自分ではメモ忘れました)。

 勝ち抜けは、同点4位が2チームあるため、そこから1人ずつ勝ちぬけになりました。後日、東浩紀および講談社から、詳しい説明があると思います。結果は、以下の8人が勝ち抜けです。


 結局、全部買っちゃいました(笑)。当日の熱気は凄いものがあり、文学フリマ全体の入場者数もトータルで推定1800人以上(参加サークル数約160)ということで、同じ会場で行われた2008年春の1200人(参加サークル数は同程度)を大きく上回りました。当日の雰囲気は筑波批評社のシノハラユウキ(id:sakstyle)さんによる結果報告最終批評神話の村上さんによる11/9のこと。が詳しいです。また公式サイトの最下部に当日の写真が掲載されています。個人的にも「出来すぎ」とも思える後半の怒涛の展開には胸踊るものがありました。最後に、今回このような機会を設けてくださった文学フリマ講談社、そして門下生および道場破りの方々に心からの敬意と感謝を。

本文

※以下の同人誌を入手したい方へ
以下の同人誌は「東浩紀ゼロアカ道場」の企画の一環として頒布されるため、当日会場でのみ一人一冊限定になっています。後日の通販などはありません。ご注意ください。日時、会場等の情報は最下部にまとめてあります。
公式にQ&Aが追加されました。後日販売は現在検討中とのこと。

 あの東浩紀による新人批評家育成・選考プログラム。しかも勝者は講談社BOXからの初版1万部デビュー。そんな「東浩紀ゼロアカ道場」ですが、個人的にはここ数ヶ月、とても注目して眺めています。というのも、以前に8月1日のエントリでもその時点での情報をまとめていたのですが、現在、このはてなダイアリーを使っての情報戦(笑)が繰り広げられているからです。
 なぜはてダを使った試みがなされているのかなのですが、現在進行中の第4回関門に関係があります。第4回関門は、11月9日に開催される第7回文学フリマを舞台に、約4ヶ月をかけて2人1組で制作した評論同人誌を販売すること。まずは、この第4課題の内容をざっと紹介します。

  • 第7回文学フリマにおいて、2人1組で評論同人誌を制作し、自ら売り子になって販売せよ。
  • 同人誌は、A5判、表紙4C(カラー)、本文1C(白黒)96ページ、定価500円、刷部数500部。
  • 内容は、広義の「評論」であれば、制限は一切ない。
  • 宣伝には、それぞれに割り当てられたはてなダイアリーを用いる。
  • 評価は「東浩紀点+太田克史点+販売部数」の合計点で行い、上位3組(6人)が関門通過。
  • 東浩紀点、太田克史点はそれぞれ800点、320点を各チームに自由に振り分ける。

ゼロアカ道場第4回関門から一部改変。改変に伴う文責はnoir_kにあります。

 この第4回関門では「道場破り」と称して、ゼロアカ参加者以外も参加することができます。そんな風に無理矢理煽っている感じがあるのですが(笑)、一応は成功していて、「道場破り」参加者もいます。様々な情報がはてダ上で公開されていたりされていなかったりするのですが、ここいらで一度まとめてみようと思います。ソースは原則として参加者のはてダです。ま、ほとんど個人的なメモみたいなものですが、散逸した情報を集積させましょう。

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「ゆのパンツ」から考える4コマまんがのアニメ化『ひだまりスケッチ×365』

 さあ、ブラウン管の中におけるパンツの話をしましょう。とは言っても、別に自分は2次元パンツ評論家ではありません、と一応釘をさしておきます。カンカン
 さて8、9月は色々と『ストライクウィッチーズ』絡みでパンツ問題について書き散らかしておりました。ありがたくも「パンツ論壇」などと呼ばれ、はてなを中心に夏らしい熱い議論が展開されていました。その過程の中で、恐れ多くも当はてダを仮想敵にご指名いただいた(笑)興味深い論がありました。

 この論自体は大変面白く読ませていただいたのですが、自分は該当シーンからまた別のことを夢想していました。ということで、そろそろほとぼりもさめただろうと、『ひだまりスケッチ×365』第11話「パンツの怪」における「ゆのパンツ問題」から感じたことを記してみたいと思います。
 なお本エントリは「新・アニメ・批評」に対する直接的な反論というわけではありません。あくまでも、同じ対象を見ていても、観察者によって感じることはこんなにも異なるんだなあ、と思っていただければ幸いです。また自分の一貫した考えとして、批評や評論あるいは感想というものは対象に仮託して自己を主張するものだと捉えています。その点、留意いただけると幸いです。

アニメ『ひだまりスケッチ』という作品の原作至上主義

 『ひだまりスケッチ×365』には原作至上主義とも思われる側面があります。それは原作者である蒼樹うめをアニメーション化プロジェクトの中心においていることからも分かりますし、一足先に『ひだまりスケッチ×365』OPを見ました+ひだまりMADとの関連性で指摘したような原作回帰傾向からも分かると思います。しばしば「原作クラッシャー」などと揶揄されることも少なくない新房昭之+シャフト作品ですが、少なくとも本作においては、原作は原作としてかなり尊重しているのが伺えます。もちろん、そこにオリジナリティ溢れるノイズを混入させてくるあたりが、さすが新房監督という感じなのですが。
 このアニメを見ていて強く感じるのが、原作を表現のレベルで限りなく「再現」しようとしているとも思える点です。全てのコマが同じ大きさに決まっているという4コマまんがの特性もあるのでしょうが、本作品はセリフ、擬音といったテキスト部分から、画面レイアウトといったイメージ部分にいたるまで、原作のそれを忠実に再現しようとしているようにも見えます。さらにベースの部分においては、まんが特有のスクリーントーンのドット表現なども強く意識しているように思われます。ここで重要なのは、『ひだまりスケッチ』の原作が4コマまんがである点です。

「にゃ〜ん」カットの観察

 当エントリで俎上にあげるのは、第11話「パンツの怪」における通称「にゃ〜ん」カット命名自分)です。このカットはオープニング映像のサビ前4連続カットでもサンプリングされているように、作品におけるインパクトのある重要な(?)カットのひとつだと考えられます。
 まず、このカットがどのような流れの中で出てきたのか、改めて見ていきます。「新・アニメ・批評」さんには怒られるのを承知で使用しますが、ざっと雰囲気を思い出していただくためにキャプチャ画像でご覧ください*1


BS-i版『ひだまりスケッチ×365』第11話より。最下段中央が「にゃ〜ん」カット

 このシーンなのですが、完全に対応する原作が存在します。原作第3巻66ページ「いつもじゃないのに」です。ちなみに次回予告で使われた1本でもあります。そしてアニメもまた、原作を完全に再現しようかというように忠実な描写で対応してきています。アニメの該当シーンは上の9カット+1カット(アイキャッチ)で構成されているのですが、そのうち4,6,8,9カットはレイアウトや表情、背景表現に至るまで、原作を限りなく踏襲しています。

 ね、塗り絵みたいな忠実度でしょ。ていうか、改めて見て、凄い再現度だな。

「にゃ〜ん」カットだけを分断して良いのか

 上でカット単位のキャプチャ画像で示したのには、実は大きな意味があります。セリフもなく、キャラクタの動作も分からない複数の画像をみていても、「にゃ〜ん」カット(アニメ8カット目、原作の3コマ目)が何を示しているのか分からないのではないでしょうか?
 このシーンに関して、「新・アニメ・批評」さんは次のようにまとめています。

  • ひだまりスケッチ×365』第11話で、多くの人は「にゃ〜ん」カットを「ゆののパンツ」だと錯覚した
  • しかし、あれは「ゆののパンツ」のようには見えない
  • あれは「背景画のようなフラッシュショット」あるいは「想像的・主観的・心理的なショット」である
  • むしろ、「ゆののパンツ」を隠すための「ヴェール」や「カーテン」として機能しているように見える
  • これはパンツを表現しながらもパンツを直接的に描写していない、一種のアニメーション技法である

 カット単位で分断してしまえば、「にゃ〜ん」カットが何を表現しているのか分かりません。オープニングのサビ前4連続カットでも、原作を知らない視聴者は第11話を見るまで、あのイメージショットみたいなものが何なのか分からなかったと思います。当たり前のことですが、「にゃ〜ん」カットは連続したフィルムの中の1カットであり、その文脈を無視してしまうと、「にゃ〜ん」カットが示しているものは永遠に理解できないでしょう。
 そういう意味で、「新・アニメ・批評」さんの「あれは「ゆののパンツ」のようには見えない」というのは、アニメを単体で素直に見た場合の当然の感想だと思います。さらに、このカットは直接のパンツではないが、パンツを表すイメージショットだと考えています。スカートのホックを外す⇒スカートが足下まで下がる⇒「にゃ〜ん」⇒落ち込むゆのに「ごめん」という文脈に沿って考えれば、「にゃ〜ん」カットが「ゆののパンツ」を何らかの形で示しているのは理解できるでしょう。
 ただ、「にゃ〜ん」カットが「ゆののパンツ」のアップなのか、それともパンツの直接描写を忌避するためのテクニックとして用いられたイメージショットなのかには、自分としては本質的な違いはないと考えています(制作者から見ると異なった思想で作られていますが、視聴者たる自分にとっては)。それはブラウン管の中のパンツとシュレディンガーの猫『ストライクウィッチーズ』でも主張していることなのですが、実写ではなく絵に描いた絵(!)である以上、この思想の違いを結果から判別することはできないからです。

4コマまんがのアニメ化における注意点:サブタイトル

 では何故アニメ版において、「にゃ〜ん」カット=「ゆののパンツ」自体という図式が容易に成り立たないのでしょうか。それは殆ど原作を完全再現し拡張したと思われるアニメ版において、原作の重要な要素が抜け落ちているからです。それは4コマまんがの5コマ目ともいえるサブタイトル(小見出し)の存在です。
 該当シーンのサブタイトルは「いつもじゃないのに」。最後のカットにおけるゆのの内なる声です。これが欠けても一応の筋道は通りますが、オチが完全にはオチきらないという結果になってしまいます。アニメ版における「にゃ〜ん」カット=「ゆののパンツ」自体が即発的に成立しない背景には、このようにサブタイトルが果たしていた内容がアニメ版に欠けているからだと考えられます。セリフも完全に原作どおり、カット割りも原作に忠実に拡張、それでもサブタイトルひとつ欠けただけで印象がガラリと変わってしまうのは、がちがちの制限の中で記述された4コマまんがをアニメ化する難しさと捉えられるかもしれません。
 4コマまんがにおけるサブタイトルには、それ自体がオチになっているものもあります。本編の4コマだけではただのシュールな光景なのが、サブタイトルで構造的強度を獲得するというのも少なくありません。本シーンでは、意味が伝わらないほどではないにしろ、その説得力が失われています
 逆にサブタイトルをうまく取り込んで成功しているな、と感じたのが第6話Bパート「11月11日 ヒロえもん」のワンシーン。ゆのの描いた絵を評価する吉野屋先生。原作第3巻44ページ「私より先に」に対応します。

 相変わらずセリフは基本的に同じなのですが、最後のカットに吉野屋先生の妄想するゆのの裸体がシャフトお馴染みのマルセル・デュシャンの回転の中に描写されます。そして吉野屋先生は原作サブタイトルに由来する「私よりも先に!」(元の「私より先に」とちょっと違うのですが)と発言するのです。このシーンを見た時、原作のコマが頭の中に残っていた自分は「ナイス・アドリブ!松来さん!」などと思ったのですが、よくよく考え直すとサブタイトルを本編に含ませていたのです。そこで原作がうっすらと匂わせていた性的な要素を画像とセリフではっきりと可視化しているのです。それが良いのか悪いのかは分かりませんが、原作のみならずその先の読者の頭の中で展開される風景まで込みでアニメ化するのは流石だと思いました。繰り返しますが善悪は分かりませんが、このことで獲得できた強度が確実にあると思います。このように4コマまんがのアニメ化において、サブタイトルは留意すべき重要なポイントだと考えています。

最後におまけ

 初めてこの「にゃ〜ん」カットについて当はてダで触れた時(ブラウン管の中のパンツとシュレディンガーの猫『ストライクウィッチーズ』の最下段)、次のように書きました。

ここまで拡大されれば、パンツはもはやパンツでないのです。

 これはとても大事な視点だと自分では考えていて、「にゃ〜ん」カットがイメージショットであれパンツ自体であれ、ここまで拡大すると、もはやどっちでも良くなるのです。それはざらついた肌のような顕微鏡写真だけを見ながら、これが人間の肌なのかはたまた象の肌なのか考えるくらいに無意味だと思います。
 そのような蒼樹うめの想像力が素晴らしいと自分は思っていて、それは上で対照例にあげた第6話Bパート「11月11日 ヒロえもん」の元ネタでありながらアニメ化されなかった部分である第3巻42ページ「定番」からもにじみ出ています。スケッチの対象物の下に敷かれているストライプの布を見て「おにーちゃんのトランクス」を想像してしまう宮子は、「ゆのパンツ」な視聴者・読者の思考と重なります。さすがうめてんてーだぜっ!(「うめてんてー」って初めて書いたけど、ちょっと恥ずかしいのな……)


日常生活の中で「生の実感」を獲得するためのヒント

 たまにははてなダイアラーらしく、はてな匿名ダイアリーに絡んでみようかと思います。とは言っても、匿名ダイアリーの流れって、すごく速いのな。あっという間に別の話題に移行してるわ(笑)。というか、もしかして匿名ダイアリーで話題になっていることを普通のダイアリーで触れるのって、ルール違反みたいな感じなのかしらん。よく分からないですが。というわけで、まずはネタ元紹介。ただあくまでも発想の原点に該当エントリが存在するだけなので、あまり気にしないでいただいても結構です。

本題

 宮台真司ではないですが「終わりなき日常」を生きる現代人たるわれわれにとって、日々の生活の中で「生の実感」を得るのは困難だと思います。生きているのか死んでいるのかわからず、ただ確実にゆるやかに死に向かいながら不透明な明日を繰り返す中で「生の実感」を得ようとしたって、それは到底無理なお話だと思います。充実した1日を積み重ねていく、とか、何の変哲もない日常・普通を愛するなんてことが「生の実感」につながるとか言われますが、そんなのは「出来れば良いね(笑)」くらいの感覚でしか捉えられません。もっと具体的、もっと目に見える形で提示されなければ、その実効性は低いのです。「がたがた言わずに『スカイ・クロラ』観に行けよ!」と押井守ファンなら言うかもしれませんが、そんなに簡単な問題でもないのは、当の押井ファンも分かっていることでしょう。あ、別に押井守ファンを馬鹿にしているわけではないですよ。本気と書いてマジで。

自傷行為と「生の実感」

 最近の事情はよく分からないのですが、リストカットなどをはじめとする自傷というのがあります。自傷というのは、一般的に自殺とはまったく別物と考えられていて、死ぬ可能性もなくはないが「死の仮想体験」を味わえるという側面があります。そのような行為に駆り立てられる心的原因のひとつとして、「生の実感」の欲求というのがあります。これは自傷に伴う痛み流血が、自分が生きているんだということを思い出させてくれるという考え方です。ここでは具体的な書名を思い出せませんが、10年位前に結構騒がれていた話題でした。多くの自傷行為の特徴は、ここであげた痛みだったりします。だから自傷予防として、自傷の衝動が湧き上がったときに、冷たい氷を握り締めるというのがありました。安全な痛みを与えることで、自傷の原因を潰し、衝動を抑えてあげようという対処法です。
 「生の実感」を得るために、上記の例では「痛覚」という感覚に訴えています。そのような刺激を与えることも、ひとつの方向性としては間違ってはいないと思います。間違っているのはその具体的手段で、多くの「痛覚」に訴える行為はたいてい何かしらの痕が残ります。それは肉体的なものに限らず、心理的・社会的なものも少なくありません。安全に痛覚に訴える行為は、なかなか難しいのです。ちなみに自傷は本当に危ないことなので、絶対にやめてください

「生の実感」の正体とその可視化

 そこで別の方向性を提示したいと思います。それが自傷のもうひとつの側面である「流血」です。人間が生きている(ここではもはや人間らしく生きているというレヴェルではなく、ひとつの生物として生きているということ)証拠が可視化されるとき、ひとは否応なく「生の実感」(もう一度言いますが、あくまでも生物としての)を感じられると思います。そこで人間が生きている、というのを逆に死の定義から考えて見ます。医学的な死の定義は、以下の3点です。

  1. 心停止(心臓<循環機能>)
  2. 自発呼吸停止(肺<呼吸機能>)
  3. 瞳孔散乱(脳<中枢機能>)

 逆にこれらを可視化してあげれば、ひとは「生の実感」を感じられると思っています。ただ脳の中枢機能を代表する瞳孔に関しては、そもそも可視化という単語の選択から分かるとおり、目で目を見るのは難しいので、除外します。その上で2点に関して、具体的行為として以下の2点を提示します。

  1. 献血(循環機能の可視化)
  2. 喫煙(呼吸機能の可視化)
献血

 そもそも自分は献血が結構好きです。どのくらい好きかというと、旅先でふらっと献血をしてしまう程度です。献血が可能になる高校生の時分、学校近くに献血ルーム(飲み食いまんが雑誌ゲームビデオし放題!)があり、かつ金欠の学生には良い暇潰しになったという不純(?)な出発点からですが、献血自体は立派な社会貢献行為です。皆さんも、レッツ献血
 そんな(どんな?)献血をするたびに感じることなのですが、腕に刺されたチューブから自分のどす黒い血液(これは静脈だからだと思います。これは実際に体験しないと分からないことでしょう)が吸引されていくのを見ていると、漠然と「嗚呼、俺はちゃんと生きているんだな」なんて感じるわけです。と同時に「リストカットで無駄な(失礼)血液を流すくらいなら、献血すれば良いのに」なんてことも感じていました。またただ流れるだけでは分からない血の暖かさが感じられる、貴重な体験でもあります。ちなみに18歳以上ならば、成分献血であれば2週間ごと、年間最大12回まで可能です。この制限の中であれば、健康への害はまったくありません。未体験の方も是非一度体験してみてください。

喫煙

 自分は喫煙習慣はありませんが、たまに喫煙します。ま喫煙自体は恥ずべき行為だと思っているので、知人の前では絶対に吸いませんが。で喫煙の効用ですが、ずばり呼吸の可視化です。
 普段は息をしていてもそれ自体は「ぬかに釘」な行為で、ほとんど無意識の行為です。意識してという意味を込めて大きく深呼吸しようが、「豆腐にかすがい」っぷりは変わりません。ただ冬になり気温が下がると、自分の呼吸が可視化されます。両手に向かって「はぁ」と白い息を吹きかけるとき、「嗚呼、俺はちゃんと呼吸が出来ていたんだなぁ」と感じる方もいるのではないでしょうか(期待)。自分の呼吸が可視化され、体内の気体が対外に放出され、空気と混じりあい霧散していく光景は、「生の実感」を確認できる行為だと考えています。それをいつでも意識的にかつ自発的に行えるのが、喫煙です。自分の呼吸が煙草の煙という媒体を通じて可視化されるのです。同じようなことを以前ラジオで伊集院光がぽつりと漏らした(大や小をではないですよ!)こともあったと記憶しています。煙草の害は散々言われていますし、マナーが悪い喫煙者が少なくなく、迷惑になっているのも分かります。ただ一方で、喫煙にはこのような心的効果もあるのではないでしょうか。

最後に

 最後に補足的に言及先に関する自分の意見を。これは喫煙問題に限りませんが、基本的に他人に迷惑をかけなければそれを制限するべきではないと考えています。それが(ある種の排斥を受けてきた)オタク趣味を持っているひとの共通見解だと思っているのですが、いかがでしょうか。逆に喫煙者側もその権利を行使するためには、他人に迷惑をかけないためのマナーを再認識する必要があるでしょう。ただこの論理を万人が容易に受け入れてくれるわけではないので、倫理的な訴えよりは、そうせざるを得ない環境作り(法整備と言った環境管理型社会の実現)で対応するべきだと考えます。

最後の最後に

 ちなみに本エントリは「日常の中での可視化」という部分に限定しています。そこを無視すれば、もう少し多くの「生の実感」の獲得方法があるでしょう。例えば循環機能であれば、心音をモニタリングするとか、腕をぎゅっと紐で縛るとか。呼吸機能では、限界まで風呂に潜るなんてのはどうでしょうか。
 また当エントリは、別に喫煙者を全面的に擁護したかったり、喫煙を推奨しているわけではなく、喫煙のひとつの効用を提示しているだけです。それに喫煙が100%の悪ってことになれば、冒頭で無理矢理取り上げた『スカイ・クロラ』なんてとんでもない映画ということになるし、昨年の映画『吉祥天女』もNG、もちろん『苺ましまろ』なんてもってのほかになってしまうわけです。個人的には困ります(笑)。だけど、日本においてはどんどん喫煙習慣は下火になっていく(予想)わけで、そのうち「デートの待ち合わせ、男の足元には沢山の吸殻が」みたいなテンプレートの表現が伝わらなくなりつつあるんだな、などと考えてしまうと少し残念です。ま、現代においてすらこんな描写はもはやとんでもないわけですが(笑)。
 ちなみにアメリカでは、2007年5月10日にMPAA(米国映画協会)が自主規制コードとして、喫煙描写を含む作品をR指定(17歳未満は保護者同伴)にするという方針を打ち出していますこれは成年、未成年問わず、すべての喫煙描写が対象になっています(ただし歴史的描写などの例外はあります)。このようなフィクションの中の喫煙描写というのはまた別の問題を孕んでいますが、個人的には「嫌な世の中だなあ」と思いながら秋の夜長は更けていくのでございます。

映像化によって失われる記号的リアリティ『とらドラ!』

 十月十日は萌えの日!そんな事実を初めて知ったのは、ラジオでおたっきぃ佐々木が喋っているのを聞いたのがきっかけだったと記憶しています。ざっと10年くらい前のことでしょうか。当時は「萌え」という単語がそろそろと拡大しつつあった頃で、やれ長崎萠が語源だとか、やれ恐竜惑星』の鷺沢萌(結城萌)*1だとか、やれ椎名へきるが『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』のヒロインよろしく「モエモエ」言っていたのが語源だとか、そういう時期でした。長崎萠という単語の選択からして、ちょっと懐かしさを覚えます。一度引退後、復帰の際に写真週刊誌でヌードを披露したのは、懐かしい思い出です。
 閑話休題
 結局、自分自身はその後の「萌え」の攻勢に追従できず、本能的・肉体的な「萌え」回路の獲得には失敗しましたが、現在においてナチュラルに「萌え」を受け入れることができているので幸いでした。何でだろ?ていうか、恥ずかしいな。おい。こんなに萌え萌え書いているのは、初めてだよ!まあ、十月十日萌えの日だからご勘弁
 というわけで*2、先日放送が開始された『とらドラ!』についてです。

高須竜児の「怖がられ」キャラク

 内容についてはとりあえずおいておいて、第1話を見て気になったのが主人公・高須竜児(CV間島淳司)のキャラクタ造形。公式サイトのキャラクタ紹介から引用すると、「父親譲りのためか生まれつき目つきが鋭いせいで、クラスメイトや初対面の人には不良だと勘違いされている」とのこと。だけど、主観的な感想になってしまいますが、そこまでの外見には見えないんですよねえ。妙に長身だったり、冒頭から饒舌な独り言を繰り広げるのもあいまって、なぜだか自分の中では『ちょびっツ』の本須和秀樹(CV杉田智和)と重なっているんですけれど、その本須和秀樹の目をちょいと吊り上げたくらい。あ、ここで『ちょびっツ』を引き合いに出しましたが、特に深い意味はないです。スタッフ的なつながりとか(調べてないけど)おそらくないと思います。

高須竜児(とらドラ! 本須和秀樹(ちょびっツ

※それぞれ公式サイトのキャラクタ紹介より引用。こうやって並べてみると、そんなに似てないな(笑)。
 高須竜児は制服を着崩しているわけでもなく、アクセサリをジャラジャラさせているわけでもなく、奇天烈な髪型をしているわけでもありません。ただ1点、吊り上った目(しかし、そこまでひどいわけではない)を除けば、きわめて普通の学生です。だけど、作中では凄く恐れられているようです。第1話の中では、道端で肩がぶつかっただけの学生からは財布を自主的に渡されてしまうし、「あれは人殺しの目よ」とまで遠巻きに言われ、ニヤリと笑えばモーセ十戒よろしく人の海が割れてしまう。廊下を歩けばコソコソ噂され、担任の先生は恐れのあまりどもって挙動不審。理想(キャラ設定)と現実(映像)のギャップを目の当たりにした視聴者は「おそらくそういう設定なんだろう」と、自分を無理矢理にでも納得させようとするわけです。
 このような「無条件で他人から恐れられる外見」といったキャラクタの設定は、そう珍しいものではありません。気になるのは、そのような高須竜児が原作の文章ではどのように表現されていたのか、という点です。このようなポイントに限定すれば、本作はあからさまに映像よりも文章に優位性がある世界で、それこそ『浦島太郎』ではありませんが「絵には描けない」なんて表現でいくらでも書けてしまいます。さあさ、どんどん『とらドラ!』からは論が外れていきますよ。

記号的リアリティと清涼院流水

 そのようなキャラクタ設定、あるいはそれに支えられるリアリティを東浩紀は「記号的リアリティ」と呼びました。これは2000年代初頭にミステリ(特に新本格)の領域において強く意識されてきた概念で、例えば笠井潔ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』などでも言及されてています*3。その大きな契機となったのが清涼院流水という作家の存在でした*4清涼院流水作品のキャラクタたちは、もはやリアリティを放棄した記号に支えられたキャラクタで溢れています。例えば九十九十九(つくもじゅうく)という探偵は、「究極の美貌」を持つ長髪の男性で、その瞳を直視すると美しさのあまり失神してしまうため、警察庁からサングラスの着用を義務付けられている、というキャラクタです。いかがでしょうか。
 しかし、そこにはただ文字という記号が並んでいるだけです。現実世界に即したリアリティの補強は、ほとんど放棄されています。それは「究極」という言葉で留まっていて、そこから先は読者の側にゆだねられているという構造になっています。つまりは文字=記号による設定のみで支えられたリアリティであり、本質的に映像化には向いていないということになります(笑)。
 本作の高須竜児の設定もまた、似たような記号的リアリティによって支えられています。しかし、それは文字通り文字の中でしか存在し得ないリアリティです。そのまま現実にもってきたところで、強度を失ったその設定は色褪せ、視聴者を白けさせるだけです。現実世界では、ただ目つきが悪いだけの男子は、無視されることはあろうとも、本作のような怖がられ方をすることはないでしょう。だからって、それは本作がフィクションだから、というメタな議論に逃げるのは得策ではありません。では、映像化する際に、どのようにして失われたリアリティを補完していけば良いのでしょうか。

記号的リアリティを映像で書き換える

 そのような記号的リアリティを映像化しようとするとき、そこにはテキストメディアから非テキストメディアへの変換が必要になります。各メディアにはそれぞれの長短があるので、多少の改変を行い、違和感を与えずにリアリティを補強して欲しいのです。例えば、ベタな方法としてはキャラクタのデフォルメや効果音、背景などで補強するというのが考えられるでしょう。その点で本作は、もともとシンプルな線で描かれていることもあり、今提示したようなテクニック(いわゆるアニメ的なテクニック)はほとんど使われていません。これはドラマをあくまでも現実空間の中で展開させていく(学園ものですしね)という意図のもとと考えられますので、絶対にこうしろというものではありません。
 他には、もっと現実に近づけた設定として、マイルドに表現するというのも考えられるでしょう。何もしていないのに怖がられるというのも、例えばちょっとしたことで他人に声をかけるけど、相手は引きつり笑いで逃げてしまう、みたいな違和感を持たせない程度の別の現象に変換することが可能だと思います。そのように、何らかの処置をして、違和感を抱かせないような工夫をして欲しいと思っているのです、自分は
 このようなことは、テキストメディアから非テキストメディアへの変換のみならず、あらゆるメディア変換の場で重要だと思っています。近年多い原作ものの映画化などですごくこのことが気になります。メディアが変わったのに、そのまま安易に原作の表現を持ってくるのは、まったくもって意味不明です。原作ものっていうのは、原作のままやれば良いってものではありません。原作を無視しろ、とは思いませんが、変更すべきところは変更し、残すべきところは残すべきだと思います。そういえば遅ればせながら今月頭に劇場版『デトロイト・メタル・シティ』を観てきたのですが、あれは良い実写化だったと思います。過去のエントリ「アニメ『ストライクウィッチーズ』の魅力を語る 主題の魅力編」と合わせて考えると、その物語的魅力が分かります。これはリアリティを物語で補強した例で、だからこそ突飛で非リアリスティックなキャラクタだらけでありながら、しっかりと1本の映画として楽しむことができたのだと思います。
 ただ、まんが⇒アニメ、実写のような非テキスト⇒非テキストの変換に比較して、小説⇒アニメ、実写のようなテキスト⇒非テキストの変換は前述したような「記号の壁」という大きな問題があります。特にライトノベルのような記号的リアリティに大きく依存している(と言われている)分野では顕著だと考えられます。その点を克服できないと、強度を失った空虚なドラマに堕するのは当然の帰結でしょう。メディアによって表現の言語は異なる。アニメにはアニメのリアリズムの確立方法があるはずなので、視聴者がスッと醒めて現実に戻ってしまうような穴は出来る限り埋めて欲しいと思うものです。というようなことを考えながら、一視聴者の秋の夜長は更けていくのであります。

*1:この名前についてはなかなか面白いので、興味があったら調べると良いと思います。簡単に紹介しておくと、『恐竜惑星』のヒロインはただの名前だけで苗字のない「萌」らしいです。伝聞の過程で、どこかで作家の鷺沢萠(めぐむ)と混同したとか。この注釈は萌えの語源の歴史を参考にしました。

*2:……と書くときはたいてい大した因果関係がないわけです。あんまりグダグダ書いているとなかなか本題に入れないので、さっさと行きます。

*3:大塚英志もまた「まんが・アニメ的リアリズム」という似たような概念を提示していますが、それはまた別のお話。本エントリでは「記号」に焦点を絞りたいと思います。

*4:清涼院流水に対する大塚英志東浩紀の評価は講談社文庫版『コズミック/ジョーカー』の巻末解説で読めます。また東浩紀の同文章は、『ゲーム的リアリズムの誕生』にも採録されていますし、「不純さに憑かれたミステリ」としてWEB上に公開されています。

『ひだまりスケッチ×365』オープニング映像のみから内容を予測できるのか<解答編>

 10月に入って1週間が経過し、アニメ新番もだいたい揃ってきた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。個人的には『ケメコデラックス』が面白かったです。内容もさることながら、斎藤千和が素晴らしいですね。あとエンディングがヤバイ(笑)。ジグムントはエロ親父!水島努節炸裂、って感じで楽しく見させていただいております。そういえば、もしかしたら視聴したものに偏りがあっただけかもしれませんが、いわゆる「オチモノ系」(空から少女が降ってきた!みたいな)が妙に目に付きました。何かそういう風潮でもあるのかしらん。
 そんな時期に前クールの話を書くのも申し訳ないのですが、お付き合いいただけると幸いです。ていうか、もりもり消費してどんどん忘れ去っていくんじゃねえ!とこれは自戒(笑)。
 以前のエントリ「『ひだまりスケッチ×365』オープニング映像元ネタ大集合+おまけもあるよ」で、『ひだまりスケッチ×365』オープニング映像中の「MAD逆リスペクト」(原作コマの取り込み)を取り上げ、そのネタ元に大きな偏りがあることを指摘しました。そして、おそらくアニメ化される箇所からスキャンしたと考えられるため、その偏りから第2期シリーズで扱う内容が予測できるのではないか、と提言しました。そこで、放送もだいたい終了した現在、その答え合わせとまだ見ぬ第14話の予想をやってみよう、というのが本エントリの目的です。

オープニング映像に取り込まれた原作まとめ

 前エントリの復習になりますが、原作からの取り込みが行われたコマはすべて第3巻からのもので、総数は計131枚、内訳は以下のようになっていました。

 使用された話数の内容は以下のようになっています。

  • 第1話:沙英さん大慌ての巻(ヒロにラブレター)
  • 第2話:聖なる夜でゴザルの巻(クリスマスパーティ)
  • 第3話:皆でつつくと幸せの巻(鍋)
  • 第5話:ガタゴトお絵描き描きの巻(神社でゆの、宮子がお絵描き)
  • 第6話:フワリとおいしいものの巻(シュークリームの家庭科)
  • 第7話:親御さんいらっしゃーいの巻(ゆのの両親がやってくる)
  • 第8話:おニャンコさまの巻(宮子の部屋に猫)
  • 第9話:やまぶきミステリーの巻(体育館ステージ裏で気を失ったヒロを発見)
  • 第10話:チョキチョキツインズの巻(美容院に行くゆの、宮子)

放送された『×365』における原作との対応

 以上を踏まえた上で、実際に『ひだまりスケッチ×365』の各話内容と原作の対応を見ていきましょう。ちなみに対応原作はあまり詳細にではなく、1話単位(8ページ、4コマ15本)で記載しています。

話数 日付 サブタイトル 対応原作
1 4月5日*1 はじめまして! うめてんてー 第1巻1ページ〜(受験)
第1巻9ページ〜(引越し)
2 2月6日 サクラサク 第3巻22ページ〜「皆でつつくと幸せの巻」(鍋)
オリジナル
3 5月27日 狛モンスター 第3巻33ページ〜「ガタゴトお絵描き描きの巻」
(神社で写生)
オリジナル
4 3月16〜23日 まろやかツナ風味 第3巻55ページ〜「おニャンコさまの巻」(猫)
10月31日 ガガガガ 第2巻101ページ〜(文化祭前)
5 3月25日 おめちか なし(オリジナル)
6 7月30日 さえ太 なし(オリジナル)
11月11日 ヒロえもん 第3巻39ページ〜「フワリとおいしいものの巻」
(シュークリーム)
7 4月7日 入学式と歓迎会 第1巻17ページ〜(入学式)
第1巻25ページ〜(歓迎会)
8 10月13日 お山の大将 第2巻69ページ〜(運動会)
オリジナル
9 8月5日 ナツヤスメナーイ なし(オリジナル)
12月3日 新宿の狼PARII なし(オリジナル)
10 6月8日 まーるニンジン 第2巻53ページ〜(靴を作る授業)
第3巻47ページ〜「親御さんいらっしゃーいの巻」
(両親訪問)
11 9月28日 パンツの怪 第2巻61ページ〜(屋上のゆの)
第3巻65ページ〜「やまぶきミステリーの巻」
(気を失ったヒロの発見)
12 7月7日 見ちゃ駄目*2 第3巻89ページ〜「沙英さんとヒロさんがーの巻」
(沙英ヒロの喧嘩)
13 1月10日 おかえり……うめ先生 第2巻31ページ〜(初詣)

 これらの中から原作第3巻に相当する内容を抽出し、原作順に並べ替えると次のようになります。

話数 日付 サブタイトル 対応原作
2 2月6日 サクラサク 第3巻22ページ〜第3話「皆でつつくと幸せの巻」
3 5月27日 狛モンスター 第3巻33ページ〜第5話「ガタゴトお絵描き描きの巻」
6 11月11日 ヒロえもん 第3巻39ページ〜第6話「フワリとおいしいものの巻」
10 6月8日 まーるニンジン 第3巻47ページ〜第7話「親御さんいらっしゃーいの巻」
4 3月16〜23日 まろやかツナ風味 第3巻55ページ〜第8話「おニャンコさまの巻」
11 9月28日 パンツの怪 第3巻65ページ〜第9話「やまぶきミステリーの巻」
12 7月7日 見ちゃ駄目 第3巻89ページ〜第12話「沙英さんとヒロさんがーの巻」

妄想上の第14話は……

 先のグラフとの対応関係を見ると、オープニング映像に登場しながら、本編では扱われていないのは以下の2本になります。

  • 第2話:聖なる夜でゴザルの巻(クリスマスパーティ)
  • 第10話:チョキチョキツインズの巻(美容院に行くゆの、宮子)

 ただし第1話「沙英さん大慌ての巻」は第2期『×365』では使用されていませんが、すでに1期『特別編』後編「11月27日 そこに愛はあるのか?」で使用されているため、除外しました。となれば、すでに2008年8月16、17日に行われたTBSアニメフェスタ2008で先行上映され、DVD最終巻に収録される予定の第14話で扱われる内容は、この2本を基にしているではないかと推測できます。もちろん、可能性としては原作第2巻以前の内容も十分ありえますが。
 この2本を二部構成にせず1本にまとめるとすると、ラストはやはりクリスマスでしょう。最後の最後が日常ネタの「チョキチョキツインズ」ではシリーズがしまらないですしね。1本に2話収録で毎月というDVD販売スケジュールから考えると、最終巻である第7巻は2009年3月になりますので、少々季節はずれにはなってしまいます。が、もともと季節感を殆ど考慮に入れていない(というか、あえて無視すること+シャッフル構成で、普遍的な日常を表現しているのだと、自分では考えています)作品なので、あまり考えなくても良いと思います。というわけで、前半で美容院に行き、後半でクリスマスパーティをする、という構成になるのではないかと予想します。美容院でちょっと小奇麗サッパリになったゆの&宮子による昼間の風景と、4人での夜のクリスマスパーティ。なかなかコントラストのきいた、良い構成ではないかと思います。サブタイトルは「♪バーグラベ〜ル」といったところでいかがでしょうか。うん、なかなか良さそうだ(自画自賛)。

本当の第14話は……

 とここまで書いてから、ちょいと気になって検索してみました。第14話の情報はあまり出ていないように感じるのですが、実際どのような内容だったのか。結果、次のページを発見しました。

 くまいみずきさんによるレポートです。よくラジオで耳にする常連投稿者の方ですね。なんか一方的に親近感を持ってしまいます(笑)。で、そのエントリによると、第14話のタイトルは「2月24日 ポラロイドン」だそうです。そういえば、これは各種通販サイトの商品紹介にも載っている情報でした。さらに内容はというと、「沙英さんがポラロイドカメラを買った話」とのこと。つまり原作第3巻に収録されている第14話「仮装大賞の巻」と対応すると思われます。というわけで、以上でうだうだ書き連ねた幻の第14話「♪バーグラベ〜ル」はただの妄想に過ぎないことが、早くも判明しました。残念。ていうか、第3巻第14話「仮装大賞の巻」って、オープニング中で一切使われてないじゃん!なんか論の出だしから大間違いでした、というオチです。てへ
 おお、すごい偶然に気がついたのですが、この『×365』第14話の原作もまた、単行本第3巻の第14話なのです。ただの偶然だとは思いますが、一応記しておきます。またこの第14話を除くと、他のものに関しては当初の予想である「オープニングに取り込まれている」という仮定が成り立っています。そういう意味では、例外(第14話)があるものの、あながち的外れな議論ではなかったのではないかと、自分を慰めたいと思います。……あ、別にエロい意味はありませんよ。
 だけど、この幻の第14話だって、まだ実現しないって決まったわけではありません。そう。アニメ第3期があれば。そんなことを考えながら、秋の夜長は更けていくのです。
 最後に。原作第4巻の発売日が決定しました。2008年12月25日です。キャラソンCDのVol.7「うめ先生」の発売日と重なっているのは偶然、いや計画通りですかね。「とらのあな」とかで蒼樹うめフェアでもやりそうな予感がひしひしと。

*1:2月9日、10日、14日、15日

*2:+7月8日、四人

地上デジタルラジオでAMラジオがサイマルされる時代のあとに

 お久しぶりの自意識過剰の俺様ちゃんです。なんて書くと、ちょっと古いタイプのアニラジリスナーは、JCM(セントラルミュージック文化放送系制作会社)所属のディレクターである俺様ちゃん川口こと川口泰三氏を思い浮かべるのではないでしょうか。『緒方恵美の銀河にほえろ!』が懐かしいですね。ところで、9月からニッポン放送のヤングタイム(で良いのかな。22時からの帯枠)が『銀河に吠えろ!宇宙GメンTAKUYA』ってのになったらしいんですけど、どうなんですかね。MySpaceタイアップというのは、なかなか興味深いですが。タイトルにもうちょっと気を使えよ!とは思います。最近のひと(?)に向かっては「僕様ちゃん」と書いておいて、西尾維新ファンを姑息に狙うのも良いかもしれません。うにー。なんてね。
 2008年9月29日から関東圏のAM放送が地上デジタルラジオの新チャンネルでサイマル放送されるようになりました。一応説明しておくと、地上デジタルラジオとはいわゆるワンセグ用に放送されている地上波デジタル放送の一種で、PC用ワンセグチューナーやauの一部対応機種で聴取可能です。サイマルというのは、あるチャンネルで放送されているものをそのまま他のチャンネルで放送するという形態で、現在の地上デジタルテレビと地上アナログテレビの関係が代表的です。
 セグメントという言葉は、いわゆるワンセグの普及期において取りざたされた単語ですが、意外と正確な内容は知られていないように思われます。自分もそうですので、少し調べてみました。まず1チャンネルの帯域幅は5.7MHzであり、それは13のセグメント(分割)から構成されます。アナログ放送は1チャンネルは1チャンネルとしてしか利用できませんが、デジタル放送では13のセグメントを3つのチャンネルに分割して利用することが出来ます。つまり、1チャンネル分の帯域幅で最大3チャンネルの放送ができるということです。13のセグメントのうちの1つを用いて行われる移動体向け簡易動画が、いわゆるワンセグ(1セグメント)放送と呼ばれるものです。
 地上デジタルラジオはワンセグの動画と同じく、1セグメントを用いて行われている音声放送です。一応、アナログテレビ停波後の2011年7月以降に開始されるサービスですが、東京・大阪では2006年10月から実用化試験が行われています。東京では9月までは、以下のようなチャンネル構成になっていました。

 BSデジタルラジオを思い出させる、不穏な(笑)チャンネル構成ですね。もしかしたら存在を知らない方もいるかもしれないですが、BSデジタルラジオとはBS-iなどでおなじみのBSデジタル放送(テレビ)を用いて行われていた音声放送で、上記の地上デジタルラジオのように各社(半強制的に?)参加したのですが、音楽の垂れ流しばかりで、まともな(失礼)オリジナル番組を作っていたのは文化放送のBSQR489くらいのものでした。そんなBSデジタルラジオは国の方針転換にも伴い、約5年ですべての放送が終了となりました。
 上リストに対して「BSデジタルラジオを思い出させる」と書いたのはまさにその点で、TBSの「OTTAVA」は延々とクラシックを流し、ニッポン放送の「Suono Dolce」は延々とラブソングを流しているだけです。一方の文化放送はのちに「超!A&G+」として独立チャンネルにする程度にオリジナルのアニラジを流しています。しかし、それだけではBSデジタルラジオ時代からの進歩はありません。しかし、明らかにBSデジタルラジオからは進歩していて、その最大の功績はインターネット向けに同一内容の配信を行っている点です。上記の関東AM3社の提供する地上デジタルラジオは、たとえばkikeruから聴取可能ですし、各社のサイトからも聴取可能です。どうやって権利関係をクリアしたのかは分かりませんが、とにかくクリアできるというのを明確に示してくれているのです。それでもコンテンツの不足もあいまって、まだまだ普及には程遠いと個人的には感じていました。
 そんな中始まったのが、冒頭に記した地上AMラジオをサイマルする専用チャンネルの開局です。2008年9月29日から上記のリストに加え、以下の3つのチャンネルが新設されました。

 まず第一に素晴らしいのが、クリアな音声。こんなにクリアなAMラジオが聴けるのは、有線放送(USEN)以来かと思われます。ただ現時点では特定地域のみで、日本中で聞けるわけではありません。デジタル放送なので汚い音声にはなりませんが、0と1しか存在しないので、いわゆる雑音リスナーのようなひとには聴取がまったくできません。ですので、これは有線の時のような牽引力はないと思われます。ただ個人的には、AMラジオにそのような高音質が必要なのかは、疑問を呈しておきたいです。
 そして最大に素晴らしいのが、今後予想される展開です。すなわち、他の地上デジタルラジオチャンネルがインターネットで同時配信されているわけですから、技術的・法的にはこれらAMサイマル地上デジタルラジオをインターネットに乗せることが可能と思われるのです。そうなると、夢にまで見た日本中、いや世界中でAM放送が聴取できる時代が到来するわけです。必死で雑音と戦いながら文化放送にチューニングをあわせていた貴方、部屋の中をうろうろしながらKBS京都の電波を探っていた貴方、ラジオ本体に触れていた方が感度が上がるからとラジオを抱きしめながらラジオ大阪を聞いていた貴方。ついにそんな貴方たちが救われる時代が到来しようかとしているのです。素晴らしい!
 ただ本当にそんな展開になるかは分かりません。それに現在のAMラジオのそこまでのコンテンツ力が残っているのかも疑問です。だけどラジオ局という存在は、散り散りになっているインターネットラジオとは異なる、パッケージとしての価値があります。いくら売れなくても雑誌が存在するように、ラジオ局としてパッケージされることには大きな価値があると信じています。そんなユメのような時代を妄想しながら、秋の夜長は更けていくのでありました。

Wikipediaには書けない『ひだまりスケッチ×365』オープニングの各話による違い

 ついに『ひだまりスケッチ×365』も全13回の放送が終了しました。第14話は2008年8月16、17日に行われたTBSアニメフェスタ2008で先行上映されたそうで、DVD最終巻に収録されるそうです。最終話は4人で食卓を囲みながら抱負を語り、コルクボードに張られた思い出の写真がスクロールしていく様は、1期最終話を思い出させてくれました。現実では1年の時間が経過したのに対し、作中では2週間程度とは何とも皮肉な……。
 そんな『ひだまりスケッチ×365』に関して、みんなも大好きWikipediaではある議論がなされていたようです。それは「各話リスト」の欄(話数、サブタイトル、コンテ、演出などのリスト。シャフト作品だと提供バックについても)にOP映像の中の「掛軸の字」について記載すべきかどうか、というものでしたご存知(?)のように、『ひだまりスケッチ×365』のオープニング映像は細かい小ネタによる各話での差があるのです。とにかく「ウィキペディアは何ではないかを頭から読み直して出直して来いっ」という感じなのですが、Wikipediaに誰かが書きたいくらいには価値ある情報だと思われます。そこで、この場を利用して、そのようなWikipediaには書けないオープニング小ネタを紹介したいと思います(以下で取り上げるキャプチャ画像は、原則として『ひだまりスケッチ×365』各話で使用された4:3の地上波バージョンのオープニング映像です)。

宮子の食事カット

 Bメロ「やっぱやっぱアクビで〜」のところ。宮子が食事をしているのは1期オープニングを踏襲しているのだと思われます。Wikipediaではこのカットの掛軸に書かれている漢字に注目していました。ここで注目すべきは他にもあって、掛軸の漢字、宮子が食べているもの、ちゃぶ台の上に乗っているもの、の3点です。これらはすべての話数で異なっています。

話数 画像 掛軸の字 食べているもの ちゃぶ台の上
第1話 鯖(サバ) 白米 ナスのお新香×5、塩
第2話 鮪(マグロ) 白米 ナスのお新香×4、塩
第3話 鯛(タイ) 白米 ナスのお新香×3、塩
第4話 鮑(アワビ) 白米 ナスのお新香×1、塩
第5話 鰆(サワラ) 白米
第6話 鰻(ウナギ) そば 七味(?)唐辛子
第7話 鮎(アユ) ごま塩ごはん ごま塩
第8話 白米 もやしごはん(?)
第9話 鮭(サケ) おむすび×3 おむすび×1、お茶
第10話 鱚(キス) 白米 空の茶碗×6、まーるにんじんのキンピラゴボウ*1
第11話 鰯(イワシ マヨ食パン*2 マヨネーズ
第12話 鰹(カツオ) カップスープ カップスープの素
第13話 鰤(ブリ) ソースごはん ソース

ラストの集合写真

 一番最後の「製作 ひだまり荘管理組合/TBS」が出るところ。6枚の写真が重なっていくものですが、ストーリーのようなものがあります。ベースになっているのが1話などで使われているもので、集合写真を撮ろうとゆのがタイマーをセットしますが、慌てて戻ったため全員を巻き込んで転び、結局フレームには誰も残らない、というものです。これをベースに、様々な展開がされています。そういえばオープニングディレクタの大沼心が「ひだまりないと」で、このカットはコマ送りして楽しんで欲しい、と言っていました。

番号 画像 場所 ゆの 内容 使用話数
1 ひだまり荘の前 転ぶ 誰も写らない それ以外
2 ひだまり荘の前 転ばない トラック*3に横切られる 第4話
3 ひだまり荘の前 転ばない カメラが倒れ、フレームにはうめ先生 第7話
4 やまぶき高校の前 転ぶ 誰も写らない 第8話
5 ひだまり荘の前 転ばない コスプレした吉野屋先生が前に*4 第9話
6 ひだまり荘の前 転ばない ピンクのクッション*5 第12話
7 ひだまり荘の前 転ばない 最後は全員集合でパチリ☆ 第13話

あやふ〜やロケット♪

 Aメロ後半「あやふやロケット」のところ。ヒロの手(左利き)が鉛筆で便箋に文字を書きます。

番号 画像 文字 イラスト 使用話数
1 あやふ〜やロケット♪ 沙英 それ以外
2 でこぴ〜んロケット♪ 沙英 第5話
3 黄緑 ゆっくりしていってね うめ先生 第8話

?でわっしょい365〜

 ゆののソロ「ユメでユメでみんなと/おんなじ会話してたよ」<監督 新房昭之>の後。「?でわっしょい」とともに、「?」の文字を背景にヒロ、吉野屋先生、宮子がジャンプするカット。背景の文字に注目。

番号 画像 文字 使用話数
1 ピンク それ以外
2 黄緑 第11話

ヒロの二の腕「プヨ」

※コメントでid:riyotさんから転載の許可をいただきました。ありがとうございます。
 4人のキャラクタ紹介最後のヒロ「パン食い競争=3」のところ。自分はこれに気づきませんでした。詳細は上リンクを参照していただきたいのですが、このとき出る文字が「プヨ」なのですが、第8話のみ「ぴよっ」だそうです。下画像はBS-iの16:9版ですが、地上波の4:3版も同じです。

番号 画像 文字 使用話数
1 プヨ それ以外
2 ぴよっ 第8話

サビのヒロの背景

※コメントで名無しさんから情報いただきました。ありがとうございます。
 サビ「女のコお菓子が主食だ」で4人が踊りながら右から左に流れていくところ。第11話のみ、ヒロの背景をうめ先生が左から右にクルクル回転しながら飛んでいます。

番号 画像 使用話数
1 それ以外
2 第11話

校長の額に「肉」

※コメントでkanaさんから情報いただきました。ありがとうございます。
 Bメロ「涙がにじむ/…おはよう」のところ。宮子の食事、うめ先生トンボに続く校長が右から左に回転しながら流れていくカット。BS-i(16:9)の第10話のみ、校長の額に「肉」の文字が。ちなみに余談ですが、今年は『キン肉マン』29周年(=ニク)です。

番号 画像 使用話数
1 それ以外
2 BS-i版第10話

まとめ

 本作の監督である新房昭之および制作のシャフトの特徴として、オープニング・エンディングを変えてくる「遊び」の点があります。『ぱにぽにだっしゅ!』『さよなら絶望先生』では映像自体が複数存在しましたが、本作のような1本の映像の中で遊んでいるのは『月詠 -MOON PHASE-』が近いでしょうか。宮子の食事カットの背景に書かれている文字なんか、『月詠 -MOON PHASE-』のカルタしりとりみたいに、何らかの規則性が見えるかと思いましたが、分かりませんでした。誰か気づいた人がいたら教えて欲しいものです。

 『ひだまりスケッチ』はそのような新房&シャフト作品に比較すると、あからさまなネタ(黒板ネタに代表される類のもの)が身を潜め、一見落ち着いた映像になっていますが、かなりアクロバティックな作品だと思っています。しかし、やはり新房というべきか、オープニングを丹念に見ていけば、おそらく次のように思ったでしょう。やられた!と。本編にも同じように、一見分かりにくいながらも、様々な「遊び」が隠れています。『ぱにぽにだっしゅ!』で鍛えられたその動体視力で、作品に忍び込んでいる「遊び」を探してみるのも一興かもしれませんね。
 最後に第13話(最終話)から、すべてのひだまらーの心情を代弁したこのカットをどうぞ。

三期あるといいなあ〜 生徒一同

余談

 あと最近は『ストライクウィッチーズ』に関する言及が多い当はてダなので一応書いておくと、1期『ひだまりスケッチ』の第7話「嵐ノ乾燥剤」は『ストライク』監督の高村和宏がコンテを切ってます。アニメオリジナル回なのですが、なかなかどうにも不思議な感じの回です。自分にはコンテの善し悪しは分かりませんが、『ストライク』ファンも興味があったら観てください。余談ですが、宮藤芳佳役の福圓美里が演じている夏目の1期唯一の登場回でもあり、ペリーヌ役の沢城みゆき演じる大家さんの(多分)初登場回でもあります。ただの偶然だと思いますが、今考えると妙な因縁を感じますね(笑)。

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 このエントリに記したような内容は、2008年11月14日に発売された『ひだまりスケッチアルバム』にも掲載されています。この本はテレビアニメ完全版とも言うべき内容で、各話タイトル画面やアイキャッチエンドカードのみならず、スタッフ&キャストインタビューや版権イラストなど、アニメ版のすべてが詰まっているといっても過言ではない、素晴らしい一冊になっています。是非購入すると良いと思います。

*1:該当話でした。ゆの家のキンピラゴボウです。

*2:この後、口から万国旗を出します。

*3:ヘーソウ運送。ゆのが引っ越してくる時のトラックです。

*4:該当話のAパートは吉野屋先生お当番回の「ナツヤスメナーイ」。

*5:沙英ヒロはケンカ中で、中央の宮子はクッションを持っているが、カメラに向かって落としてしまう。該当話です。